my lips are sealed

tamavskyのB面

8月後半〜9月前半 本と映画の記録

最近読んだ本、観た映画について。読み手からしたら一つずつ記事にしたほうが絶対に読みやすいのだろうけれど、私の中では全部つながっているから、一気にしか書けなかった。それでばーーっと書いて、また眺めてみると、別にそれぞれ独立していて、作用しあったりはしていないようにみえた。なーんだ。

 

 

品田遊『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』

生まれてこないほうがよかったと思っていた。が、それは半分くらい病気のせいであるらしかった。それとは別に、私から生まれる子供はきっと不幸になるから絶対に産まない、私から生まれなくても不幸になるから生まれないほうがよい、そういうことを考えたこともあった。今もそういった考えがゼロなわけではない。私が私に生まれてきたことによって被った不幸や悲しみ、惨めな気持ちは、この先どんな大きな幸せがあったとしてもおそらく消すことも忘れることもできない。その点、蝿の入ったスープの例えは腑に落ちる。

何日か前に、「親ガチャ」ということばが朝の情報番組で取り上げられ、SNSに反応が溢れた。上の世代を中心に強い拒否感が示されているようだった。出生の比喩にガチャを使うのならば「子ガチャ」のほうが正しそうなのに、そちらは親ガチャよりも倫理的に許されない感じがしているのが不思議だ。

作中ではさまざまな比喩を使い、または使わずに言葉のままに、反出生主義について次々説明がなされる。私も誤解していた部分があったし、多くの人にとっても誤解されやすい思想なのだろう。この本は反出生主義の現在地の説明として、また哲学、倫理学の入門としてとてもわかりやすく面白い読み物だった。

さまざまな考え方の人(さまざまな"主義"が色の名前をつけられ、擬人化されている)が意見を交わす対話篇の形をとっており、自分も会議に参加しているかのように感じながら一気に読める。実際に一日かけてひといきで読んだ。

意外だったのは、自分が意外と"レッド"(共同体主義者)に共感できるところが多いということだった。私には愛国心や、学校や会社をはじめとするコミュニティへの帰属意識といったものがずっと希薄であるという認識でいたので、そういった思想とはまさか相入れないだろうと思っていたのだけれど、「人と人とが認め合い、助け合う社会」への理想はともすれば共同体主義にも通ずるのかもしれないと気づかされた。 国や民族ではなく人類という共同体になら帰属意識が、確かにあるかもしれない。全然逆の話だけど星新一の『人類愛』ってショート・ショートを思い出した。

"ホワイト"が終始浮いていたのが少し気になった。教典原理主義とあるが言ってしまえばキリスト教の思想であるので、それがたとえば仏教であったらまた異なっていたようにも思う。「厭離穢土」という言葉もあるくらいだし、ブラック(反出生主義)にも一定の理解を示した上での反論があったかもしれない。そういえば反出生主義の宗教ってあるのだろうか。

グレーが何主義なのか、伏せられているので詳しくは書かないけれど、「書かれていないけれどなんとなくわかる」くらいに哲学の歴史を軽く知っておいてよかった〜と思った。

私はやはり善く生きたい、と思う。それはたぶん幸福のためでもあるし懺悔の結果でもある。子供を産み育てたいという気持ちが湧くことは未だにないが、科学技術に人並み以上に敬意を持ち、芸術を愛する一個人からすれば人類の叡智が失われることは(人類の視点から見れば)やはり悲しむべきことだと思うし、私は人類の視点から逃れることができない。ほら、共同体主義っぽいでしょ。ただし一方で人間でない生物も好きなので、彼らのことを考えると人類はさっさと滅亡するべきだとも本気で思う。極端だ。

 

 

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」

村上春樹の作品を好きな人ほど、村上春樹は短編がいいよね、と思っている気がする。

主人公は傷ついた自分を守るために悲しみ、怒りといった負の感情を抑え、それによって生まれた歪みに再び苦しめられる。車の運転をみさきに任せ、亡くなった妻との関わり方を反省し、自分を抑えられない正反対な高槻と対話し、ワーニャという男性性から零れ落ちたキャラクターを演じ「生きていかなければ」と言い聞かせられることで、やっと何か実感を得たようになる。家福のことだけ見ていると、女に助けられすぎだろ、と思うけれど、女たちも女たちで家福との関わりの中で(家福から"もたらされる"のではなく、共に過ごした/過ごさなかった時間や場所の中でで自ずからひっそりと)何かに気づいたり、何かを生み出したりする。こういうの全部「コミットメント」で説明がつくか……

 

コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を超えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫

 

好きなシーンはみさきが褒められて、照れて、黙って犬を撫でにいくところ。

音楽の心地よさと手話で話す女優のしなやかさと、サーブの赤(原作では黄色だったのが赤になって、画的にはたぶん、大正解)が脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

フランソワ・オゾン監督「Summer of 85

近日中にセリーヌ・シアマ監督の「Tomboy」を観、比較する可能性があるため保留。

 

 

クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」

とても良かった……色々と思ったことあるが、ありすぎて、一旦保留。そう遠くないうち、自分が旅をする折に、思い出しながら書けたらよいのだが。

 

 

川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』

この本、今年ベストくらいに面白かった(と言えるほど新刊を読んでいないけれど)。

私の大好きな植本一子さんにこの本、読んでほしいな〜〜〜っ!!!!と強く思う。というか、もう読んでいるかも。彼女の『フェルメール』で美術鑑賞の様子を文章で読むのって面白いんだ、と気づいた。植本さんはフェルメールの作品を観て撮って本にするという企画が動き出したとき、わざわざ飛行機に乗り海外にいくのだから、最初はその場で出来が確認できるデジタルカメラでの撮影を考えていたのだけれど、結局(そもそも彼女の使用機材としてはメインである)フィルムカメラでの撮影を選んだ。その一発勝負の潔さというか、生身でぶつかる感じ、美術館という場所を愛している人ならではなのかなあと今は思う、なぜなら『目の見えない白鳥さんと〜』で繰り広げられる会話にもそういうカラッとした緊張感が漲っていたから。

7月にボルタンスキーが亡くなって、私は自分でも驚くくらいショックを受けていた。この本で取り上げられている国立新美術館での個展、「Lifetime」には私も足を運んでいたので、なつかしい気持ちで読んだ。モノクロのぼやけた写真、ジャケットの山、古着がたくさん吊り下がっていた、見たことは覚えているけれど、感じたことをうまく思い出すことができない。ただ、恐怖とやすらぎが同居する空間に、はじめはおずおずと歩いていたのがだんだんと居心地よくなって、最後はカタルシスさえ感じていたような気がする。

理由をうまく言い表すこともできないし、特別その人のモノマニアだったわけでもないのに、この世を去ったことで心に大きな穴があいてしまったように感じたアーティストが幾人かいる。デヴィッド・ボウイヨハン・ヨハンソン青木裕、そしてクリスチャン・ボルタンスキー。才能に溢れ、それでいて少しカルト的というか、万人受けするわけではなくて(笑)、多くの作品を世の中に送り出し、何度も何度も私の心を救ってくれた人たち。そして彼らの生前、彼らから今後生み出される作品についても、その美しさを、エネルギーを限りなく信じていた。だから、その源泉が絶たれてしまうということが本当につらかったし、うまく受け入れられなかった。彼らはもう二度と新作を出さない、ということがこの世界にとって取り返しのつかない損失であるように思えて、このままでは世界がどんどん醜くなってしまう、何故いなくなってしまうのかと、憤りというよりも焦りのような感情を覚えた。今もまだ、その喪失と損失の感覚から抜け出すことができない。

話が逸れてしまったがとにかくボルタンスキーのあの展示が、この本に載っていたことがうれしかった。鑑賞者による言葉で彼の作品が表され、紛れもなくこの世に存在していたということが確かに遺っていて、本当によかった。

マリーナ・アブラモヴィッチという名前を聞いても、《夢の家》の概要を読んでも気づかなかったが《Rhythm 0》のことはどこかで読んで知っていた。6時間ものあいだ観客に身を任せるパフォーマンスで、彼女は非常に危険で屈辱的な目に遭った。人間の恐ろしさの証左のように語られるこのパフォーマンスだけれど、 そもそもマリーナのやっているパフォーマンスは多くがとても身体的に危険なものだ。だから、そんな彼女がこんなプロジェクトをやっているなんて意外だった。引用されている《夢の家》のプロジェクトの意図を読んでみて、ぜひ体験したいし、友達を連れて行ってみたいと思った。

著者が途中、優生思想や差別意識についてかんがえる部分、自分もはっとして、心細くなりながら読んだ。私は大丈夫だろうか? って、きっとみんな思ったことがあると思う。それと同時に、自分が弱者であったりマイノリティであったり、いわゆる差別をされる側の要素も持っているから、その目線からだと差別意識との付き合い方が急にわからなくなったり、どうでもよかったりする。学生時代に、藝大に行っていた友達に誘われて在日外国人の子供たちと演劇をしたときに思ったことを忘れないようにしたいと思う。少しさっきの村上春樹みたいだけど、「わたしたちはわかりあえなくても一緒にいることができる」ということと、「関わってみると相手は、○○人の○性で○歳、という情報ではなくて、その人の名前と顔と身体そのものになる」っていうことだ。だから「藝大に行っていた友達に誘われて在日外国人の子供たちと演劇をしたとき」っていうのは便宜上の書き方で、本当は「あの賑やかで楽しかった日々」である。

 

 

マーク・コリン監督「ショック・ドゥ・フューチャー」

アルマ・ホドロフスキー(!)主演。電子音楽に疎いため響いていない部分がありそう。もうディグディガみたいに公式が小ネタ解説noteを書いてくれ。正直前半からクララとの作曲シーンまでがピークだった。セクハラや女性蔑視が当たり前の業界人たちは勿論ウザいのだが、主人公のアナもなかなか破天荒な奴で、大して売れてもいないのに、仕事をすっぽかしたり、困ったらすぐ私は未来の音楽をやるのよ!!と大口を叩いて、払わなければならないお金を誤魔化そうとしたりする。ただ可哀想というふうには描かれていないのがいい。

 

ところでSupernature聴くとギャスパーノエのLSDムービーを思い出す体になってしまっていたがこの映画で朝のスモーキングタイムBGMに変更。

 

 

 

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ずっと読書していたい。時間が無限にほしい。眠りたくない。眠らなければ…………