my lips are sealed

tamavskyのB面

わからなさ

とても楽しかった週末の話。

 

先週末、バンドサークル時代の先輩であるあきさとさんに誘われて詩の合評会、福岡詩話会というものに参加させていただいた。名前の通りふだんは福岡で開かれている会なのだけれど、詩集の批評会や文学フリマがあるので皆さんあわせて東京に来ており、今回は東京で開催することになったそうだ。現代詩の界隈には明るくない私でも知っている方の名前がちらほらあって緊張しつつ、私もせっかくなので作品を提出し、評をいただくことができた。

詩を書く(詠む)という行為が作詞以外では本当に久しぶりで戸惑った。短歌と違って字数やリズムも自由で。たとえば短歌なら5文字か7文字か12文字くらいのフレーズが浮べば少なくともとっかかりができる。ちょっとボルダリングみたいだ。そこに足をかければ自ずと次に手足をかけるべき、あるいはかけることができるホールド(ボルダリングの壁についてる突起のこと)がわかってくるような。歌詞をつくることも、(詩先のことがほぼないので)押韻や音数という制限の中でやることになるから、ただ真っ白な紙を目の前にすると立ち尽くしてしまう。

そんな状態から、さらに皆さんの詩を読んで投票し、評するわけで、脳内の使ったことのない筋肉をフル回転させるような体験だった。

友達が主催する、お題に沿って即興で(15分ほど時間が与えられる)詩を詠み、朗読し、投票するというイベントに参加していたことがあった。そのときあまり長い詩を書けなくて、短い詩、が自分のやってみたい形なのかな、と思って、あとは笹井宏之さんの歌集を友人からもらったのがきっかけで、短歌をつくってみるようになったんだった。

吉祥寺での詩話会が終わったあと、西荻窪の今野書店さんで3冊の詩集の批評会があり、そちらにも足を運んだ。カニエ・ナハさん、井上法子さん、佐藤文香さんという詩、短歌、俳句の作り手がそれぞれの方法で詩集を評する会で、これが本当に面白かった。井上さんが竹中優子さんの詩と短歌について、形式と形式との間で起こる"時差ボケ"のようなものを感じられない、というようなことを仰っていて、私が詩作に取り組むときに感じたのはまさに"時差ボケ"だったのかな、と思った。私は海外に行ったことがないので時差ボケをしたことはないが。この批評会では佐藤さんが名司会っぷりを披露しており、あとで聞けばラジオか何かで鍛えられたらしい。音声コンテンツができる方、本当に尊敬してやまない……。

この日はとにかく何もかもが刺激的でとても楽しく、あきさとさんもいるならと思って打ち上げにまで参加してしまった(あきさとさんとはそんなに喋らなかったけど)。あまりにも錚々たるメンバーの中で私じゃなくてもっと現代詩を頑張っている人がここにいるべきでは……と何度も思ってしまうけれど、私だって音楽や短歌をそれなりにやってきてここにいるのだ、多分、と思い直す。ほんの少し勇気があればいつのまにか望んだ以上の場所に誰かが招いてくれる。自意識に蓋をするように酒を飲みすぎた。石松さんに評を褒めていただけて嬉しかった。私は詩歌について体系的に学んでこなかったし、歌会に参加しても、評ってこれでいいんだろうかといつも半信半疑で劣等感があった。雑誌やnoteでひとの一首評を読んだりして、自分なりに方法を見つけたりはしているのだけど……。一つ大切にしていることがあるとすれば、歌会や合評会はコミュニケーションであるということかもしれない。感動や違和感をできるだけ言語化し、抽象化し、内心そわそわしているかもしれない作者に伝えたいと思っている。石松さんは打ち上げの席でも色々とお話ができ(映画の話になりベルイマンの『沈黙』をおすすめいただく)、詩集、それもサイン本をいただいてしまい、嬉しくて悪魔みたいな笑顔になった。大切にする。詩作も批評もまだまだ試みていきたい。

詩話会には上川さんという未来短歌会所属の方もいて、短歌の話も弾んだ。結社のシステムについてもお話が聞けてよかった。別れ際、福岡に来たら連絡してくださいね、東京に来る時は私も言います!と言ってくださり、とても嬉しい。打ち上げの居酒屋では中家菜津子さんが隣にいらっしゃって、詩人に歌人を、歌人に詩人をおすすめするコンシェルジュになっていた。心から楽しそうに短歌と詩の話をする方で、尊敬と親しみの気持ちでいっぱいになる。マーサ・ナカムラさんをおすすめいただいたので、そのうち詩集を買ってみよう。そういえば批評会にも知っている歌人の方がちらほら見えていた。

合評会も打ち上げも隣の席だった新井さんとは、たまたま映画の話になり、お互いガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』が大好きな作品、ということでテンションがわかりやすく上がる。映画の好みが合いそうだったので僭越ながら『アフター・ヤン』をおすすめした。

 

私はやっぱり奇妙なものに惹かれるんだなぁと再確認している。映画も、大林宣彦デヴィッド・リンチテリー・ギリアム、びっくりするような、想像できないような映像、演出、脚本が好きだ。パラジャーノフも最近YouTubeにあることを知り『ざくろの色』を観て、何もかもよくわからないのにひたすらに美しくて感動した。休職期間中に毎日のように映画館に通って観たファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』も途中からメロドラマに飽きていたのにエピローグ(主人公の死後の世界)でブチ上がった。エピローグだけまた上映してくれないだろうか。わからなさ、という話が批評会でもあがったけれど、私もこの先ずっとわからなさを大切にするべきなのだと思う。そもそも私はいつも何もわからないまま生きてきたじゃないか、ともう完全に本棚に入りきっていない文学フリマ戦利品を眺めながら思う。

感想を書くのにも時間がかかる

※本の感想を書こうとして自分の話ばかりするいつもの日記です

 

植本一子さんの新刊『愛は時間がかかる』、読み終えた。

2年前くらいに『かなわない』に出会って、むさぼるように彼女の日記やエッセイを読んできた。写真集も買った。写真展にも足を運んで、そこで一度だけ、ご本人と少しだけ言葉を交わしたことがある。「本にサインが欲しいんですけど、もう全部持っているので、写真集をもう一冊買いました」と言って(本当に思い出して恥ずかしくなるくらい気持ち悪い話し方になってしまって、ちょうど一年くらい経った今でもなんだったんだあれは、と脳内反省会が始まってしまう)、サインをしていただいた。

私がここまで彼女の文章から目が離せないのは、私も似たような問題を抱えている、と感じていたからだ。家族やパートナーとの関係、過去の出来事が原因の認知の歪みなど、心当たりのあることが多く、だからこそ彼女が日記の中でどのように感じ、どのように対処していったのかに非常に興味があったし、こういったことで困っているのは私だけではないとどこか安心する気持ちもあったと思う(ということはもしかしたらこのブログにも書いたことがあるかもしれない)。

今回の著書はEMDRというトラウマ治療の記録がメインの内容ということで、発売前から、というか植本さんのニュースレターで言及されていたときから非常に気になっていた。

これまでも植本さんの著書を読みながら、涙が止まらなくなってしまうことが何度もあった。それは彼女に感情移入したからというよりは、私が抱えている似たような問題や記憶を思い出してしまい、その辛さに耐えきれず涙が出てくるのだった。だから私は彼女の著書はできるだけ家に一人でいられるタイミングで読むようにしてきた。今日も同居人が泊まりの仕事で不在にしているので、夕食後に熱いお茶を淹れて飲みながら読むことにした。

本当はAmazonで本を買いたくないのだけれど、日中外出の予定がない中でもできるだけ早く手に取りたかったので結局Amazonで買ってしまった。信じられないほどの簡易梱包で、そのせいなのか、あるいは梱包される前からなのか、カバーの端が少し皺になってしまっていて少し怒りを覚える。私はAmazonの倉庫でバイトをしたことがあって、ピッキングから梱包までに本がどのように扱われたのかは容易く想像できる。本を最低限大切に扱ってもらえるだけでも、本屋さんで買う価値はあるな、と思った。でもその後、読むのに夢中になっていたらお茶を飲んでいたカップの中にスピンを二度も水没させたので、私も別に、ぜんぜん大切にできてないわ〜と反省した。

私は文章を映像に再構成しながら読むタイプなので、辛くて蓋をしてきた記憶を思い出していく描写を読んでいると、他人の文章を読んでいるのに自分の脳が勝手に動き出して、自分の記憶を開陳してしまう。それで自分の辛い記憶をいくつも思い出してしまい、涙が出るから、せっかくなのでスッキリするだろうと思って大声で泣いた。大人になってからのほうが大声で泣いている気がする。それは一人になれる時間が増えたからだ。家族と同じ家に住んでいると、本当に一人の時間がなかった。小学生の頃、同級生からの嫌がらせがひどかったとき、部活から帰ってきてから母親が家に帰ってくるまでの1、2時間だけは一人で泣くことができた。その一人になれる時間は本当に心が安らいだ。もう家に誰も帰って来ず、朝も来ず、この時間が一生続けばいいのにと思っていた。

治療の中で、ある人への負の感情や記憶がほどけてしまうことに困惑しているのがリアルだった。私自身、同じ関係性の人物との折り合いの悪さに認知の歪みや精神的不安定の原因があると踏んでいると同時に「そんなに簡単にその人のことを許せるわけがない」という強い思いがある。

以前カウンセリングに通っていた時、私はまずその人に対して正しく「怒る」必要があったので、カウンセラーさんは「それっておかしいよね」「そんなひどいことをされたの?」「すごく傷付いたよね」と、私の悲しみや怒りを引き出してくれた。でも私が「これが辛かった、嫌だったというのを本人にぶつけたい」と言い出したら、それはあなたは一旦はスッキリするかもしれないが、そう簡単に解決するとは思えない。今の段階では関係性を壊しかねないのでは、として止められた。私はもはや怒りに取り憑かれてその人との関係性を自ら進んで壊そうとしていたので、それの何がいけないのか、と思ったが、人との関係性を壊すということは、私自身にもストレスがかかることだと諭されて、確かにそうかもしれないと納得して、その話はやめたし、アクションを起こすことはしなかった。

結局EMDRにはとても興味を持ったけれど、精神的にも、金銭的にもかなり負担が大きいので、すぐに取り入れることは難しい気がする。年間3万人が自殺し、それよりももっと多くの人が精神的な問題に苦しんでいるだろう国で、心理治療に保険が効かないのが信じられない。

 

ところで、『愛は時間がかかる』というタイトルは、読み終わってから「こういうことか」「こういう意味もあったのか」と思えて素敵だなと感じた。誰から誰へ届くのに時間がかかったのか、誰と誰との間で意味をなすことに時間がかかったのか。読む前は愛する側の目線で「時間がかかる」と言っているのかとばかり思っていたのだが、愛される側の言葉でもあったのだ。「自分は愛されていたのだ」と、半信半疑でも思えることはどんなに幸福だろう。

彼女は彼女で、私は私で、まだ色々と越えなければいけない壁がある。けれど、乗り越えるための一つの有効な手段が明らかになり、それを支えてくれる仲間がいるというのは心強いだろう。私もすぐに治療にアクセスできなくても、治療を受けた彼女ならこう考えるかな?と思うことで、少しは息がしやすくなるかもしれない。

 

トラウマで思い出したのだけれど、先日、友人がある文学新人賞に送ったという小説を読ませてもらった。読む前から、本人のトラウマとなっている記憶のことを書いていると知っていたのだが、それがどんなものかもよく考えずに軽々しく「読みたい」と言ってしまった。彼女も人に読んでほしいとは言っていたのだが、読んでみるとかなり辛い出来事やショックなこともあり、読み終わってから、自分が軽率に読みたがったことを反省した。ただ、非常に個人的な文章にしかないささやかな灯火がそこには確かにあって、そういうものを私は今までもこれからも心から求めているんだ、というような意味の言葉を伝えた。ストーリーというよりも私小説のような形式で、感想を書くのが難しかったし、感想など求められていないのだが、絶対に感想を送らなければならないと思った。

それは、何年も前、学生だった頃にサークルの先輩が書いた小説を読ませてもらって、「感想が欲しいです」と言われていたのに、結局書けなくて、伝えられなかったのをすごく後悔しているからだ。私はその先輩のことが大好きだったのと、私と先輩の共通点は音楽と文学しかない、と思っていたので(まあ実際そう、あとは射手座ってことくらい)小説?絶対読みたい!と無邪気に思って、どういうやりとりをしたか忘れたけれどとにかくテキストファイルを入手した。その小説は二人称だったことと、先輩が作った曲とリンクする部分があったことは覚えている。感想を書こうとしたけれど、先輩を傷つけてしまうのでは、失望させてしまうのでは、嫌われてしまうのではと思うと何も書けなくなった。自意識過剰すぎて私は、冷静な批評家にも狂信的なファンにも、当たり障りのない感想を書くいち後輩にすらなれず、そのせいで私は「感想を送る」という約束を破った。それが一番彼を失望させたのではないかとも思う。私が思っているだけで全然なんとも思っていないかもしれない。むしろそうであってほしい。自分の中では今も引っかかり続けているとても苦い思い出だ。せめて何か一言でも、正直に「感想が書けない」ということでも伝えたほうが良かったと思う。
私にとって残酷なことを言う。その時の私の目的はテキストファイルを入手した時点で終わっていたんだと思う。相手が私に対して開いてくれた扉に土足で入っていって、黙って出ていくのは、よくないことだ。私はこれまで、私に対して開かれていない扉にも隙を見て勝手に入って、勝手にその中身を知った気になってきた。そういうことばかりやってきた気がする。私は、開けてもらえた扉から私に見えた景色について話すことができたはずだ。
おそらく、信頼とは、そうやって築くものだったのだ。私は先輩に信頼してもらいたかったけど、そうなれなかったのは、私が私のことばかり考えていて、せっかく入れてもらえた他人の懐に入っても何も残さずに勝手に出ていく、クソつまらない人間だったから。ただそれだけなんだろう。

先輩はその何年か後に、蔵書を私に20〜30冊くらいくれた(処分したかったらしい)。難しくて途中でギブアップした本もあったが、少しは先輩に近づけるだろうかと思って長い時間をかけて読んできた。一応、2/3以上は読んでいると思う。今はもうSNSしか接点がないから、何をして何を考えているのか、更新されなければ何もわからない。いいねを押す他に関わり方がわからない。もしこの先会う機会があれば、もっと相手の話を聞いて、私の言葉で会話ができたらいいなと思うけれど、たぶんかなわない。それがなんとなくわかっているこの切なさは、実は、先輩の小説を読み終わった時に感じた気持ちにとてもよく似ている気がするのだ。

推し?

昔から周囲には男女問わずアイドルと呼ばれるものにハマっている子が何人もいて、私にはその気持ちがずっとわからなかった。お気に入りの競走馬とかはいたけれど。まず見た目が綺麗な人間が歌って踊っていることの何が尊いのかわからなかった。人間よりは音楽に興味があって、でもアイドルソングは凡庸でつまらないと感じていたので、そもそも興味がなかった。たまにインディーズのアイドルでちょっと攻めた曲を耳にして気に入ることはあっても、アイドル本人に興味が向かない。アイドルは私の方を向いていないと感じていて、それが原因だった。圧倒的な呼ばれていない感。女性アイドルは結局異性愛者の男性のほうを向いていると感じていた。なんでそう感じてしまうかといえばそれは男性客が多いしお金になるから、ただそれだけで彼女らに罪はないのだが。チェキとか握手とかの文化も気持ち悪いし、なによりライブが無理で、行けなかった。客が、ライブ中に大きい声でコール?とかミックス?みたいなことをしたり、踊ったりする意味がわからなくて、ばかみたいだと思ってしまう。私はほとんどバンドの音楽しか聴いてこなくて、ただ演奏を聴きたくてライブに行くことしかしたことがなかったから、そう思ってしまうのは仕方ないのかもしれない。

でも最近はKPOPを筆頭にガールクラッシュという潮流がもはや一般的にさえなっていて、そういったグループのMVは素直に素敵だなと思えるようになってきた。(男性が女性に向ける視線がどれだけ嫌だったんだろう) もちろん男性ファンだっているのだろうけど、私の身の回りにはほとんどいない。日本のアイドルとは女性ファンの規模が全く違うと感じる。そういうグループを知って、私にも好きになる権利があるというか、憧れてもいいグループがあるんだ、とはじめて思った。

私はなんとなく彼女たちをアイドルグループと呼ぶのが嫌で、ガールズグループとか、ダンスボーカルグループとかわざわざ呼んでいる。日本のアイドルがあまりにもあこぎな商売をしてきたから、アイドルという言葉が汚れてしまったように感じている。

ここ数年はMAMAMOOとか、aespaとか、LE SSERAFIMとか、NewJeansとか、XGの音楽がすごく好きでたくさん聴いているし、作り込まれたMVも魅力的でたくさん再生している。これらのグループはメンバーの顔と名前が一致するくらいにはなった。特にNewJeansのヘリンちゃんが好きで、私は富江みたいな顔の女の子がどうしても気になってしまうんだなと思う(同じく富江顔な中国のコスプレイヤー、周仙仙耶ちゃんも大好きです、インスタフォローしてます!)。

プロデューサーのミン・ヒジンという人は、アートムービーみたいなコンセプトのアートディレクションが非常に得意なのだということを知った。また、少女性愛的な傾向が批判されていることも知って、ああ、まだ葛藤しなければならないんだなと思ったし、私に似ていて、そりゃ好きになるか、私もこの人も大概気持ち悪いなあと思った。散々男性ファンたちを気持ち悪いと言っておきながら私だってかなり、惹かれる女の子には少女的なところがあって、ロリコンだと思う。ただ私はそれを大きな声で言えない程度には恥じていて、恥じることなく楽しめる人たちを妬みながらバカにしていただけなのかもしれない。結局アイドルを推す、ということの罪について考えずにはおれない。メンバーの年齢を知って、ひー、児童労働……思いながらどうしようもなくNewJeansが好きだ。(AttentionのMV公開一時間後から注目していたおじさんはおそらくそういうことも何も知らず、あるいは知っていても深く考えることなくああいうことをツイートし「最近流行りのアイドルにも注目しちゃう俺」に気持ちよくなっちゃっているので、お話にならない。ご丁寧なエゴサーチとブロックに感謝)

彼女たちはあまりにも遠いところにいて、どうしたらいいかわからなくてペンライトなど買ってしまった。夏の終わりに届く。コンサートにも行ってみたいけれど、コール的なものを我慢できるのだろうか、それはまだわからない……。

私が今ランダムでロック画面に設定しているヘリンの写真はどれも、一枚も笑っていない。あなたは私のためには笑わなくていい。このクソみたいな世界と私を猫の目で睨みつけていて。

なんで自分がここにいるのかよくわからなくなってきた。なんでこんな変な名前で変な顔なのか。なんでここにこの人と住んでこの仕事をしてこの音楽を聴いててこのバンドをやってて週末に練習に行くことになってるのかなんで今ベランダでタバコ吸ってるのか、なんでこの銘柄なのか、なんで明日やらなきゃいけないことがあるのかなんでこの服を着てこの髪色でこの姿で生存してるのか、この人と友達なのか、今日何食べたのか、何がしたくて何がしたくないのか、何に満足して何にしていないのか、なんでこんなに部屋が散らかっているのか、なんで風呂に入らないのか、なんで毎日スペイン語で日にちと曜日をつぶやいているのか、何がなんだかもうわからない。何もわからなくなりたいのに何もかもが目の前にあって、意味とか由来がある、なんだかとても簡単なことのような気がするし、同時に難解なような気がする。なんで愛されている人ばかりすぐ死んでしまったり病気になったりしてしまうんだろうか。なんでありもしないものを信じている人がたくさんいるのか、何もわからないが、わかるときはずっとこないのだろうと思う。すれ違う人には優しくできるのに、自分のすぐそばの人や自分を全然大切にできないのはなんでなのか。辛いことばっかりだった気もするし、楽しいことしかなかった気もする。楽しいってなんだっけ?全部嘘だったかもしれない。頭の中のある成分が血液にたくさんあるだけで、それは本当に楽しいってことなんだろうか。逆に、ある成分が足りないだけですごく足りない気持ちになるけど、それは本当に悲しみなんだろうか?

Let's get physical / Vamos a lo físico

最近スペイン語を勉強している。

実は完全な初心者ではなく、大学の第二外国語で履修していた。でも今はもうほとんどの単語を忘れてしまっていて、単語帳、参考書、ドリル、ミニ辞書を買って一から学び直している。メンタルヘルス的によくない余計なことを考える暇があったら勉強しようという気持ちで一式揃えた。どうせいつもの衝動的な行動だし、気分転換でしかない。でも好きなメキシコのバンドの歌詞が少しわかってきたのは楽しいし、オモコロチャンネルで2年前くらいに上がっていた、スペイン語のレシピを意味がわからないなりに想像で作ってみる回もだいぶ理解できるようになっていて嬉しかった。食べ物の単語ばかり覚えてしまうから……。

同音異義語を見つけると「ややこしい」より「ラッキー!」が勝つ。一つの単語で2つも意味を覚えられるのはお得な気がする。たとえば、estaciónには「駅」という意味もあるし「季節」という意味もある。駅と季節が同じって、なんだか詩的でいいなと思う。今はまだ春の駅を出てまもない頃だろうか。

 

駅までの道の途中で川を渡るのだが、中洲や土手に生える草が緑色になってきた。家から見える丘の上の公園も、ここ数週間で一気に芝生が青くなった。もう少し暖かくなったら、お弁当でも持ってピクニックしたいな。

 

先日仕事で京都へ行った。ちょうど桜が満開のころで、天気もよく、歩いているだけでとても気持ちよかった。

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今の仕事の内容にそこまで不満はないし、かなり自由にやらせてもらっていると思うが、オフィスや家でPCと睨めっこしている間に気持ちの良い季節が去っていくのが悲しい。太陽の暖かさを感じたり鳥の声を聞いたり、川の流れる音や土の匂いを感じたり、飛んでいる虫の種類が変わっていくことを発見したり、そういうチャンスを逃し続けて何年も経っていくのは、生き物としての感覚が鈍っていく気がして嫌だ。これが続くとごはんも美味しくなくなる気がする。野性を取り戻していきたい。

Talk

来週の月曜日、なぜか伊勢に行くことになったので仕事を休みにした。そのタイミングで忙しくなってしまい、でもやっぱり働きます、が伊勢にいてはできないので、今日は終電まで仕事をし夕飯を買う時間がなかったので途中から低血糖で何が何だかわからなくなっていた。雰囲気でSlackを送りまくっていたと思う。

金曜の退勤はどんなに遅くなっても大丈夫な気持ちだ。それは翌日が休日だからというつまらない理由ではなく、OVER THE SUNを聴きながら帰るという贅沢な時間が確定で待っているからだ。それはビールと同じで、そこに至るまでに耐えたストレスがデカければデカいほど美味い。

TBSラジオpresentsのPodcast番組 オーバー・ザ・サン。パーソナリティのジェーン・スーです。」「堀井美香です。」「毎週金曜夕方5時から配信されるこの番組。皆様今週もよくぞ、よくぞ金曜日まで辿り着きました! 毎回おおよそ30分、わたくしジェーン・スー堀井美香さんが語らい、皆様からのメールを読み、太陽の向こう側をオーバー!と目指していく」

そんなトークプログラムとなっております。

前口上(?)を覚えている。というか、リスナーは本当に全員だいたい空で言えるくらいなんじゃないか。物忘霊(ものわすれい=オーバーザサン用語。おばさんの物忘れは物を忘れさせる霊の力であり、加齢による記憶力の低下ではない)に憑かれていなければ。いま実際に聴いて確認したら惜しくて「皆様から届いたメールを」だった。それ以外はミスなし! そんなことは気にならない、だって毎回おおよそ30分といいながら1時間を切っているほうが珍しいくらいにいい加減なPodcastだ。おばさんは会話のボリュームの見通しを倍間違って生きているんだ。2時間で出ようと思ったカフェに4時間いられる。

あるときOVER THE SUNをパートナーに聞かせたら「会話がおばさんすぎる」という理由で爆笑していた。話している二人がおばさんなのだから当たり前だ。おばさん同士の会話は、いつも全体的に妙に実感がこもっているのが特徴だと思う。だからエモい。とはいえ、作家でラジオパーソナリティであるスーさんと、アナウンサーでナレーターの美香さんの組み合わせなので、やっぱり話すのがうまいなあと思う。本当に聴いていて緩急が心地よい。おばさん同士の会話のダイナミズム。

そういえば昨日、おばさんではなく、おばあさん同士の会話を聞く機会があった。昨日は在宅勤務をしたのだが、気分転換に午後から高尾山口のカフェで仕事をしたのだ。仕事を早めに終わらせられたので、駅前の温泉施設に行った。サウナ水風呂外気浴を2周して完全に整いの境地に至り、最後に露天風呂で体を温めていたところ、近くにいた老婆3人組の会話をしばらく聞くことになったのだ。

とはいえ露天風呂なので、風が吹けば声は四方に散ってしまう。彼女たちの声は途切れ途切れにしか聞こえない。北朝鮮のラジオを聴く気持ちで、盗み聞きがバレないかヒヤヒヤしつつ耳をすませる私。耳をすませば、「排除」が聞こえる。

排除?

「排除してるんですってね。」

えっなんだ、すごい、修羅場か? また耳をすませる。急に風向きが変わってハッキリと聞こえた、「自民党は本当にね、自分の私腹を肥やすことしか考えてないの」。どうやら老婆たちは政治を批判する世間話をしているようだった。でも「排除」の意味や文脈は結局わからなかった。セクシャルマイノリティとかの話かな? 自民党が排除しているものがたぶんけっこう多くてわからない。しかし、高尾山の露天風呂で「排除」という言葉を突然聞かされる日が人生にあるとは思わなくて、やたらと耳に焼き付いている。おばあさんの声で「排除」。ちなみにおばあさんの声で「自民党は……」の実感のこもり方にはかなりヤバいものがあった。

 

自分の気分にあった音楽が思い浮かばないときや、音楽だと眠ってしまいそうなときはPodcastを聴いている。Podcastを聴きながら寝てしまうことも実際はかなりあるのだが。

基本的に更新されたらすぐに聴くのが、ゆる言語学ラジオとOVER THE SUN、となりの雑談。

ゆるコンピュータ科学ラジオ、すごい進化ラジオは少し貯めてから聴いている。なんとなく。

気になるテーマからつまみ食いを続けているのコテンラジオ、ノウカノタネ、聴くCINRAあたり。

ゆる学徒ハウス発のはなかなか追えていないけれど、ゆる音楽学ラジオは特に面白くてこないだ最新回まで一気に聴いてしまった。やっぱり自分は音楽の話って好きなんだ、と思った。二人ともお茶目すぎて脱線が生き生きしているのがいい。そのあとにクラシック音楽を聴くのも楽しい。

 

この日記も大幅に脱線したがとにかくOVER THE SUNはおもしろい。かけがえのないおもしろさがある。私も友人たちと無駄に実感のこもった楽しい話をし続けたい。話した内容を忘れて何度でも同じ話をして何度でも笑おう。

 

Twitterデトックスをしている話

私はTwitterを中3の冬に始めて、実に13年間も入り浸っていることになる。その間一度もやめようと思わなかったわけではなくて、例えば高校生のときは受験勉強に集中するためにアプリを一時的に消してみたり、不眠がひどい時に寝る前に眺めてしまうのをやめようとしてDock(基本的にLINE、SpotifySafariTwitterの順で並べている)から外してみたりはしたことがあった。

でもそれは一時的なもの。本当にやめたいならアカウントを消すのが一番だ。自分でもわかっているけれど私にはそれができない。13年分の自分の記録が無かったことになってしまうような気がするし、他にオープンなアカウントのSNSをやっていないので、そこでしかつながれない人が大勢いる。

今回もやはりアカウントを削除する勇気はなくて、アプリを消す勇気もなくて、「ホーム画面から取り除く」を選んだ。という訳でデジタルデトックス、というよりTwitterデトックス中である。

 

Twitterを眺めているのが辛い、という理由に他ならない。

例えば、昆虫食とりわけコオロギ食について、陰謀論やデマが広まり、挙句"バカにしてよいもの"的な風潮が広まり、「奨学金減免の条件に出産って何食べたらこんなこと考えつくの?コオロギ?」「牛乳が廃棄されていて勿体無い。みんな牛乳を飲もう。コオロギ食べてる場合じゃない」といった、前半まではその通りだなーと共感できるのに最後になぜか昆虫食をバカにしていく投稿が多数見られるようになった。

ツイートの趣旨としては社会の歪みに声を上げるもののため、あまり昆虫食に関心がない人が、なんか世間で批判されてるから言っておけみたいな気持ちで書くんだろうし、そして昆虫食文化のある地域のことや、(莫大な補助金などなくても)昆虫食に魅力と可能性を感じて一生懸命働いているメーカーさんや研究者のことを知らないのだろう。知らない人が拒否感を示すことははまだ理解ができるのだけれど、昆虫食への興味を公言している自分と親しい人がそういうツイートを平気でRTしているのが一番辛かった。

そのうちデフォルト表示が「おすすめ」タブという、低俗で差別的で攻撃的で吐き気のするような投稿ばかり流れてくるものになり、 Twitterはもはや、ただ脳に異常なストレスを無制限に与え続けるSNSになってしまった。これが最近の双極性障害の症状の悪化と重なり精神衛生上有害、と判断したのでアプリをホーム画面から削除した。

PCはログインしたままにしているので、特に親しい友人だけをフォローした鍵付きのプライベートアカウントだけ眺めている。だいぶ気持ちが楽だ。

 

それでも自分にとって何か思ったことを書き留めておく場所は必要なようで、長い間書けないでいたブログに回帰しようと思う。DockのTwitterがあった場所には現在はてなブログのアプリが置いてある。