my lips are sealed

tamavskyのB面

ジャーナる

エイドリアン・レンカーによるソングライティング講座のお知らせを読み、絶対に受講したい、してやるの気持ち。英語を聞き取れる自信がないので、録画を頑張って訳していくしかない。

という出来事があったり、最近気分が落ち込むのを防ぐためにお絵描きしていたり、あとは文学フリマでたくさん本を買ったりして、もっと創作に向き合いたいと思っている。向き合うべきだとわかっているのに、現実はなんだか生活をやっていくのに精一杯で、易きに流れてしまい、糖分で頭がぼんやりして、インターネットのノイズで頭がいっぱいになって一日が終わってしまう。情けない報酬系と貧弱な体力。もっと頭と手と足を動かさなければどんどんつまらない人間になってしまう。ノイズを減らすという点では人間関係も少しは取捨選択をしたほうがいいのだろう。とにかく日記を書こうと思う。短くてもいいから続けられたらいい。文体なんかも気にせず思うままにやるのだ。今年の頭に1ヶ月だけ家計簿をつけてみて、「続ける」ということのコツが少しわかった。とにかく、ダサくてダメな自分を認めること。これが案外むずかしい。できていると思っていても全然できていない。ダメな自分は認めたいのに、つまらない自分は認めたくないってもう矛盾している。

8月上旬日記:ケチャまつり、ファスビンダー、動物の知性、神話

何かが少しずつ繋がっている8月上旬。

 

8月5日、芸能山城組の「ケチャまつり」に行ってきた。
ジェゴグで交響組曲AKIRAからの演奏があり、鹿踊り、ジョージア伝統合唱、ブルガリア民族合唱、ガムランまで観ることができた(夜にスタジオ練習があったので、ケチャまでは見られなかった)。
本当に行ってよかった。あまりにも素晴らしくて興奮状態が解けず、数日間そのことしか考えられなかった。あれがハイパーソニックサウンドの効果なのだろうか。よく晴れた午後、暑い屋外でずっと演奏を聴いているのに少しも嫌な気持ちがしなかった。
ジョージア伝統合唱とブルガリアの民族合唱で思い出したのが、小学生のときに入っていた吹奏楽部で演奏した「ルーマニア民族舞曲」がとても好きだったこと。バルトークの曲は今でもよく聴く。パラジャーノフの映画もあの音楽が大好きだ。東欧の民俗音楽にどうしてこうも惹かれるのか自分でもよくわからない。
とにかく、芸能山城組の演奏には強く感銘を受けたので、また機会があればぜひ演奏を見に行きたいと思う。

 

8月6日、Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下にてライナー・ヴェルダー・ファスビンダー傑作選の3本を観た。
『不安は魂を食い尽くす』、画面の決まり具合がひたすらに格好良い。風格がある。人間の意地悪な視線、居心地の悪さが凄まじいが、だんだんと意味がわかってくる。差別や偏見、マイクロアグレッションの描写は現代でも全く古びない。後ろ指をさされ、世界に二人だけならいいのにと願うエミもアリも全くの善人ではないところもよい。人間は皆不完全であるから面白い。「お互いもっと優しくならなきゃ」、というエミの台詞で仲直り、ハッピーエンドのようにも見えるが、きっとまた同じようにお互いを傷つけるのだろうことは想像に難くない。それから、鑑賞後にWikipediaを見ていてアリを演じた俳優のその後を知ってしまい、なんともいえない気持ちになった。
あとそういえばなんかエンパイア・オブ・ライトってこんな感じの設定だったなと思った。

マリア・ブラウンの結婚』は本当に面白くて、オールタイムベストムービーに入るくらい好きな映画になった。爆発で始まり爆発で終わるマリアの結婚。マリアは自立心があり、いつでも自信満々で、聡明で理知的で、型破りな美学があって、見惚れるほど美しい女性主人公で、これってまさしくBad Bitchじゃないか。太宰治『斜陽』のかず子くらいの衝撃があった。

『天使の影』(これはダニエル・シュミット監督)は出てくる人が皆うっすら死にたいような顔をして詩のような台詞を吐き続ける。主人公が最初の方でずっと寒がっていて、画面もなんだか寒々しかった。あと序盤で子猫がひどい目にあうので注意。ファスビンダー演じるヒモ男が見事なクズで、早く死ぬか捕まるかすればいいのにと思っていたのに、ラストシーンの彼があんなに悲しいなんて。

 

帰りに渋谷TSUTAYAで鈴木俊貴・山極寿一『動物たちは何をしゃべっているのか?』を買って帰った。鈴木先生が研究しているシジュウカラの"言語"のこと、山極先生が研究しているゴリラの認知能力のこと、どれにも新鮮な驚きがある。他の生き物についてのエピソードもたくさん盛り込まれている。まだ読んでいる途中なのだが、人間以外の生き物のコミュニケーションや認知についてのエピソードから、人間はどのように言語を発達させるに至ったのか?という大きな問いに向かっていっていて、胸が熱くなる。

人間と動物を分ける意味って本当にないんじゃないか。ケチャまつりで観た、岩手県に伝わる「鹿踊り」は鹿の群れが山から降りてきて、ここは人がいなくて安全だとリーダーが判断してみんなで遊び、そのうち帰っていくというような(うろ覚えなので少し違うかもしれない)ストーリーがあって、動物たちがもっと身近に暮らしており、人は動物を観察して、動物も人を観察して一緒に生きていた時代のことを思った。

 

8月7日、バンドメンバーで久しぶりに飲みに行った。小出がエゾリスを店名に冠した喫茶店を見つけて、エゾリスについて知りたくなり、本を借りて調べたらしくエゾリス博士になっていた。なんと、エゾリスもわざと「天敵が来た!」と鳴いて自分だけ食べ物にありつくような騙し行動をするらしい。意気揚々とそれ、シジュウカラもやるんだって!!とプレゼンしてしまった。リスだってサルだってシジュウカラだって結構ちょっとしたズルをして生きているのだ。
人間だってもうちょっとズルをして生きればいいと思う。

 

高校同期4〜5人で毎年旅行に行っているのだが、今年は阿蘇と高千穂に行くことになった。毎年順番に企画担当を回しており、今年は私が担当になったので、公共交通機関だけで楽しむプランを血眼になって立てている。阿蘇はまだ良いのだが高千穂が思っていた数倍は秘境で、バスが1日2本というレベルだった。
11月後半の山の中でバスに乗れなければ即終了というとんでもないスリリングな旅になりそうだ。

天安河原天岩戸神社へも行くので、せっかくなら古事記について勉強して行きたいと思っている。そういえば鹿踊りも、一説では神の使いである鹿に扮して踊りを奉納したという由来があるらしい。三連休は図書館に行きたい。お盆だが開いているだろうか。

『aftersun アフターサン』感想

少し前にシャーロット・ウェルズ監督『aftersun アフターサン』を観たので感想を書く。
思い出しながら書いていて涙が出る。辛い。本当に良い映画だった。

※以下、本編の内容に関する記述を含みます。

 

タイトルの "aftersun" は、日焼けの後の肌に塗るトナーのことのようだ。劇中でも、カラムがソフィの日焼けした肌に丁寧にそれを塗っている場面があった。美しい思い出と表裏一体のヒリヒリとした痛みを想起させる。

映画のあらすじを簡単に説明すると、11歳のソフィは父親のカラムとトルコのリゾート地に滞在していて、映画はその間に撮影したハンディカムの映像や、ソフィの記憶や妄想と思われるショットで構成されている。セリフでの状況説明がとても少ないので本当のところはわからないが、全てのショットでカラムはあの若い姿のままだし、大人になったソフィと同じ空間にもその姿で現れるので、それ以来会っていないということかもしれない。

シャーロット・ウェルズ監督はインタビューで自身の作品の特徴について下記のように述べている。

短篇映画を観てもらうことを通して、観客が作品に入り込める余白というのは、自分の作品に備わっている要素なのだと気が付きました。私は感情を表現する際に、会話による説明を最も避けているのですが、そこから生まれたスタイルなのだと思います。*1

セリフによる明確な説明がないので、自ずと観客は想像によって「余白」を埋めていく。皆、ついつい自分の記憶を投影してしまうのではないだろうか。
だから私も、余白にかまけて、私の話をたくさん書こうと思う。

余白が贅沢な映画に出会うとき、自分がいつも表現活動の中で直面するある種のままならなさについて考える。たとえば歌会に参加すると、多くの人が無記名の詠草を批評することになり、自分の短歌の「伝わらなさ」を痛感する。短歌には文字数やリズムという制限事項があるため、どうしてもそういったことは起こる。それが短歌という表現のおもしろく奥深いところであるし、そもそも私だって、全てを詳らかに説明したいわけではない。それなのに「私はこの歌はこういうことでしかないと思うのに、誰もそう思わないなんて!」という驚きは、たびたびある。
だから、余白を作ることは表現者にとって結構勇気のいることだと思う。映画という、説明しようと思えばいくらでもできてしまいそうな媒体で、この映画は絶妙なバランスで余白を残し、観客に「もしかして、こうだったのかな?」と思わせている。そしてその「もしかして」は、ソフィがカラムに対して考えていることにも重なる。

 

C・ウェルズ監督のインタビューをもう一節、引用する。

一〇−一一歳の頃に父と行った夏休みの旅行の写真を偶然見つけて、それにインスパイアされたのです。私は写真の中の父と同じ年齢になっていたのですが、過去の親の姿を見て、対等の立場にいるような妙な気持ちになったのです。親を同じ人間として見る事は、通常ならできないはずなのに。*2

親もただの人間であるということ。親にも悩み事はあるし、常に正しい判断ができるわけではないし、欠落した部分がある。それに気づくことで人は大人になっていく。しかし自分が大人になった頃には親も同じだけ老いており、また新たな世界を見ている。アキレスと亀パラドックスのように、親と子が完全に対等になる日は生きているうちは来ない、ように思える。……でも、思い出の中なら?

親が人間であることは、当たり前なのに、複雑な気持ちになる。そう気づくことで救われることもあるし、簡単に受け入れられないこともある。そこに悪意があったわけではないと頭で理解していても、未だに納得できないことや許せないことなんかもやっぱりある。

私は今28歳で、大人になったソフィや記憶の中のカラムと同じくらいの年齢だ。だけど子供もいないし、結婚もしていない。

年齢層の他に共通点があるとすれば私の両親も離婚している。といっても別居が始まったのも私が高校生の頃だったので、ソフィのような11歳とはきっと感じ方もかなり違うだろう。当時の私は「まあそういうこともあるか」くらいに思っていたけど、大人になっても人間関係はうまくいかないんだなぁというのは、気が重くなる現実だった。

でも私は今も父が大好きだ。我が家は両親共働きの平凡な家庭だったが、文化資本の面ではおそらくそれ以上に豊かで、両親とも私に多くの文化を与えてくれた。初めて映画を見たのも、ライブハウスに行ったのも、父と一緒だった。小学生の頃は父の部屋に私の勉強机が置いてあったので、父の本棚から勝手に取り出して読んだ江戸川乱歩京極夏彦に夢中になった。それから、父は私を否定するようなことを一切言ったことがない。昔のことってどうにも嫌なことばかり覚えているものだが、父に関してはそんな記憶がない。「お父さんキライ」的な反抗期さえなかった。ちょっと頼りないけど、私が物心ついてから今に至るまでずっと味方でいてくれる存在だ。

 

音楽も私にとって馴染みのあるもので懐かしく、楽しかった。両親も90年代の音楽が好きで、劇中で流れるBlurR.E.M.もまさに自宅や車でよく流れていた。
カラムが好きなLosing My Religionをソフィが歌う場面で、なぜカラムが嬉しくなさそうだったのかについては、北村紗衣さんのブログを読んでなるほどと思ったので紹介しておく。

saebou.hatenablog.com

 

私が一番好きなシーンは、カラムがソフィに、恋愛でもドラッグでも、なんでも話してほしいと伝えるところ。きっとカラムの周りにはそういう大人がいなくて、それがソフィの記憶の中でも垣間見える彼の苦悩の種になっていたかもしれない。自分がかけて欲しかった言葉を我が子にかけたのかもしれない。ソフィはストロボの明滅する中、少し離れたところから踊るカラムを見ている。光と闇の連続なので、見えない瞬間、見たことのない部分がある。想像するしかない。想像することで、父という存在が遠くも、近くも感じられることがある、そういうことを描いた映画なのかもしれない。


そうえいば大島依提亜さんが手がけた凝った装丁のパンフレットも素晴らしいので、購入していない方はぜひ手元に迎え、思い出のアルバムを捲るように映画の余韻に浸ってほしい。

*1:ユリイカ 2023年6月号 特集=A24とアメリカ映画の現在(青土社) p.43

*2:ユリイカ 2023年6月号 特集=A24とアメリカ映画の現在(青土社) p.41

わからなさ

とても楽しかった週末の話。

 

先週末、バンドサークル時代の先輩であるあきさとさんに誘われて詩の合評会、福岡詩話会というものに参加させていただいた。名前の通りふだんは福岡で開かれている会なのだけれど、詩集の批評会や文学フリマがあるので皆さんあわせて東京に来ており、今回は東京で開催することになったそうだ。現代詩の界隈には明るくない私でも知っている方の名前がちらほらあって緊張しつつ、私もせっかくなので作品を提出し、評をいただくことができた。

詩を書く(詠む)という行為が作詞以外では本当に久しぶりで戸惑った。短歌と違って字数やリズムも自由で。たとえば短歌なら5文字か7文字か12文字くらいのフレーズが浮べば少なくともとっかかりができる。ちょっとボルダリングみたいだ。そこに足をかければ自ずと次に手足をかけるべき、あるいはかけることができるホールド(ボルダリングの壁についてる突起のこと)がわかってくるような。歌詞をつくることも、(詩先のことがほぼないので)押韻や音数という制限の中でやることになるから、ただ真っ白な紙を目の前にすると立ち尽くしてしまう。

そんな状態から、さらに皆さんの詩を読んで投票し、評するわけで、脳内の使ったことのない筋肉をフル回転させるような体験だった。

友達が主催する、お題に沿って即興で(15分ほど時間が与えられる)詩を詠み、朗読し、投票するというイベントに参加していたことがあった。そのときあまり長い詩を書けなくて、短い詩、が自分のやってみたい形なのかな、と思って、あとは笹井宏之さんの歌集を友人からもらったのがきっかけで、短歌をつくってみるようになったんだった。

吉祥寺での詩話会が終わったあと、西荻窪の今野書店さんで3冊の詩集の批評会があり、そちらにも足を運んだ。カニエ・ナハさん、井上法子さん、佐藤文香さんという詩、短歌、俳句の作り手がそれぞれの方法で詩集を評する会で、これが本当に面白かった。井上さんが竹中優子さんの詩と短歌について、形式と形式との間で起こる"時差ボケ"のようなものを感じられない、というようなことを仰っていて、私が詩作に取り組むときに感じたのはまさに"時差ボケ"だったのかな、と思った。私は海外に行ったことがないので時差ボケをしたことはないが。この批評会では佐藤さんが名司会っぷりを披露しており、あとで聞けばラジオか何かで鍛えられたらしい。音声コンテンツができる方、本当に尊敬してやまない……。

この日はとにかく何もかもが刺激的でとても楽しく、あきさとさんもいるならと思って打ち上げにまで参加してしまった(あきさとさんとはそんなに喋らなかったけど)。あまりにも錚々たるメンバーの中で私じゃなくてもっと現代詩を頑張っている人がここにいるべきでは……と何度も思ってしまうけれど、私だって音楽や短歌をそれなりにやってきてここにいるのだ、多分、と思い直す。ほんの少し勇気があればいつのまにか望んだ以上の場所に誰かが招いてくれる。自意識に蓋をするように酒を飲みすぎた。石松さんに評を褒めていただけて嬉しかった。私は詩歌について体系的に学んでこなかったし、歌会に参加しても、評ってこれでいいんだろうかといつも半信半疑で劣等感があった。雑誌やnoteでひとの一首評を読んだりして、自分なりに方法を見つけたりはしているのだけど……。一つ大切にしていることがあるとすれば、歌会や合評会はコミュニケーションであるということかもしれない。感動や違和感をできるだけ言語化し、抽象化し、内心そわそわしているかもしれない作者に伝えたいと思っている。石松さんは打ち上げの席でも色々とお話ができ(映画の話になりベルイマンの『沈黙』をおすすめいただく)、詩集、それもサイン本をいただいてしまい、嬉しくて悪魔みたいな笑顔になった。大切にする。詩作も批評もまだまだ試みていきたい。

詩話会には上川さんという未来短歌会所属の方もいて、短歌の話も弾んだ。結社のシステムについてもお話が聞けてよかった。別れ際、福岡に来たら連絡してくださいね、東京に来る時は私も言います!と言ってくださり、とても嬉しい。打ち上げの居酒屋では中家菜津子さんが隣にいらっしゃって、詩人に歌人を、歌人に詩人をおすすめするコンシェルジュになっていた。心から楽しそうに短歌と詩の話をする方で、尊敬と親しみの気持ちでいっぱいになる。マーサ・ナカムラさんをおすすめいただいたので、そのうち詩集を買ってみよう。そういえば批評会にも知っている歌人の方がちらほら見えていた。

合評会も打ち上げも隣の席だった新井さんとは、たまたま映画の話になり、お互いガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』が大好きな作品、ということでテンションがわかりやすく上がる。映画の好みが合いそうだったので僭越ながら『アフター・ヤン』をおすすめした。

 

私はやっぱり奇妙なものに惹かれるんだなぁと再確認している。映画も、大林宣彦デヴィッド・リンチテリー・ギリアム、びっくりするような、想像できないような映像、演出、脚本が好きだ。パラジャーノフも最近YouTubeにあることを知り『ざくろの色』を観て、何もかもよくわからないのにひたすらに美しくて感動した。休職期間中に毎日のように映画館に通って観たファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』も途中からメロドラマに飽きていたのにエピローグ(主人公の死後の世界)でブチ上がった。エピローグだけまた上映してくれないだろうか。わからなさ、という話が批評会でもあがったけれど、私もこの先ずっとわからなさを大切にするべきなのだと思う。そもそも私はいつも何もわからないまま生きてきたじゃないか、ともう完全に本棚に入りきっていない文学フリマ戦利品を眺めながら思う。

感想を書くのにも時間がかかる

※本の感想を書こうとして自分の話ばかりするいつもの日記です

 

植本一子さんの新刊『愛は時間がかかる』、読み終えた。

2年前くらいに『かなわない』に出会って、むさぼるように彼女の日記やエッセイを読んできた。写真集も買った。写真展にも足を運んで、そこで一度だけ、ご本人と少しだけ言葉を交わしたことがある。「本にサインが欲しいんですけど、もう全部持っているので、写真集をもう一冊買いました」と言って(本当に思い出して恥ずかしくなるくらい気持ち悪い話し方になってしまって、ちょうど一年くらい経った今でもなんだったんだあれは、と脳内反省会が始まってしまう)、サインをしていただいた。

私がここまで彼女の文章から目が離せないのは、私も似たような問題を抱えている、と感じていたからだ。家族やパートナーとの関係、過去の出来事が原因の認知の歪みなど、心当たりのあることが多く、だからこそ彼女が日記の中でどのように感じ、どのように対処していったのかに非常に興味があったし、こういったことで困っているのは私だけではないとどこか安心する気持ちもあったと思う(ということはもしかしたらこのブログにも書いたことがあるかもしれない)。

今回の著書はEMDRというトラウマ治療の記録がメインの内容ということで、発売前から、というか植本さんのニュースレターで言及されていたときから非常に気になっていた。

これまでも植本さんの著書を読みながら、涙が止まらなくなってしまうことが何度もあった。それは彼女に感情移入したからというよりは、私が抱えている似たような問題や記憶を思い出してしまい、その辛さに耐えきれず涙が出てくるのだった。だから私は彼女の著書はできるだけ家に一人でいられるタイミングで読むようにしてきた。今日も同居人が泊まりの仕事で不在にしているので、夕食後に熱いお茶を淹れて飲みながら読むことにした。

本当はAmazonで本を買いたくないのだけれど、日中外出の予定がない中でもできるだけ早く手に取りたかったので結局Amazonで買ってしまった。信じられないほどの簡易梱包で、そのせいなのか、あるいは梱包される前からなのか、カバーの端が少し皺になってしまっていて少し怒りを覚える。私はAmazonの倉庫でバイトをしたことがあって、ピッキングから梱包までに本がどのように扱われたのかは容易く想像できる。本を最低限大切に扱ってもらえるだけでも、本屋さんで買う価値はあるな、と思った。でもその後、読むのに夢中になっていたらお茶を飲んでいたカップの中にスピンを二度も水没させたので、私も別に、ぜんぜん大切にできてないわ〜と反省した。

私は文章を映像に再構成しながら読むタイプなので、辛くて蓋をしてきた記憶を思い出していく描写を読んでいると、他人の文章を読んでいるのに自分の脳が勝手に動き出して、自分の記憶を開陳してしまう。それで自分の辛い記憶をいくつも思い出してしまい、涙が出るから、せっかくなのでスッキリするだろうと思って大声で泣いた。大人になってからのほうが大声で泣いている気がする。それは一人になれる時間が増えたからだ。家族と同じ家に住んでいると、本当に一人の時間がなかった。小学生の頃、同級生からの嫌がらせがひどかったとき、部活から帰ってきてから母親が家に帰ってくるまでの1、2時間だけは一人で泣くことができた。その一人になれる時間は本当に心が安らいだ。もう家に誰も帰って来ず、朝も来ず、この時間が一生続けばいいのにと思っていた。

治療の中で、ある人への負の感情や記憶がほどけてしまうことに困惑しているのがリアルだった。私自身、同じ関係性の人物との折り合いの悪さに認知の歪みや精神的不安定の原因があると踏んでいると同時に「そんなに簡単にその人のことを許せるわけがない」という強い思いがある。

以前カウンセリングに通っていた時、私はまずその人に対して正しく「怒る」必要があったので、カウンセラーさんは「それっておかしいよね」「そんなひどいことをされたの?」「すごく傷付いたよね」と、私の悲しみや怒りを引き出してくれた。でも私が「これが辛かった、嫌だったというのを本人にぶつけたい」と言い出したら、それはあなたは一旦はスッキリするかもしれないが、そう簡単に解決するとは思えない。今の段階では関係性を壊しかねないのでは、として止められた。私はもはや怒りに取り憑かれてその人との関係性を自ら進んで壊そうとしていたので、それの何がいけないのか、と思ったが、人との関係性を壊すということは、私自身にもストレスがかかることだと諭されて、確かにそうかもしれないと納得して、その話はやめたし、アクションを起こすことはしなかった。

結局EMDRにはとても興味を持ったけれど、精神的にも、金銭的にもかなり負担が大きいので、すぐに取り入れることは難しい気がする。年間3万人が自殺し、それよりももっと多くの人が精神的な問題に苦しんでいるだろう国で、心理治療に保険が効かないのが信じられない。

 

ところで、『愛は時間がかかる』というタイトルは、読み終わってから「こういうことか」「こういう意味もあったのか」と思えて素敵だなと感じた。誰から誰へ届くのに時間がかかったのか、誰と誰との間で意味をなすことに時間がかかったのか。読む前は愛する側の目線で「時間がかかる」と言っているのかとばかり思っていたのだが、愛される側の言葉でもあったのだ。「自分は愛されていたのだ」と、半信半疑でも思えることはどんなに幸福だろう。

彼女は彼女で、私は私で、まだ色々と越えなければいけない壁がある。けれど、乗り越えるための一つの有効な手段が明らかになり、それを支えてくれる仲間がいるというのは心強いだろう。私もすぐに治療にアクセスできなくても、治療を受けた彼女ならこう考えるかな?と思うことで、少しは息がしやすくなるかもしれない。

 

トラウマで思い出したのだけれど、先日、友人がある文学新人賞に送ったという小説を読ませてもらった。読む前から、本人のトラウマとなっている記憶のことを書いていると知っていたのだが、それがどんなものかもよく考えずに軽々しく「読みたい」と言ってしまった。彼女も人に読んでほしいとは言っていたのだが、読んでみるとかなり辛い出来事やショックなこともあり、読み終わってから、自分が軽率に読みたがったことを反省した。ただ、非常に個人的な文章にしかないささやかな灯火がそこには確かにあって、そういうものを私は今までもこれからも心から求めているんだ、というような意味の言葉を伝えた。ストーリーというよりも私小説のような形式で、感想を書くのが難しかったし、感想など求められていないのだが、絶対に感想を送らなければならないと思った。

それは、何年も前、学生だった頃にサークルの先輩が書いた小説を読ませてもらって、「感想が欲しいです」と言われていたのに、結局書けなくて、伝えられなかったのをすごく後悔しているからだ。私はその先輩のことが大好きだったのと、私と先輩の共通点は音楽と文学しかない、と思っていたので(まあ実際そう、あとは射手座ってことくらい)小説?絶対読みたい!と無邪気に思って、どういうやりとりをしたか忘れたけれどとにかくテキストファイルを入手した。その小説は二人称だったことと、先輩が作った曲とリンクする部分があったことは覚えている。感想を書こうとしたけれど、先輩を傷つけてしまうのでは、失望させてしまうのでは、嫌われてしまうのではと思うと何も書けなくなった。自意識過剰すぎて私は、冷静な批評家にも狂信的なファンにも、当たり障りのない感想を書くいち後輩にすらなれず、そのせいで私は「感想を送る」という約束を破った。それが一番彼を失望させたのではないかとも思う。私が思っているだけで全然なんとも思っていないかもしれない。むしろそうであってほしい。自分の中では今も引っかかり続けているとても苦い思い出だ。せめて何か一言でも、正直に「感想が書けない」ということでも伝えたほうが良かったと思う。
私にとって残酷なことを言う。その時の私の目的はテキストファイルを入手した時点で終わっていたんだと思う。相手が私に対して開いてくれた扉に土足で入っていって、黙って出ていくのは、よくないことだ。私はこれまで、私に対して開かれていない扉にも隙を見て勝手に入って、勝手にその中身を知った気になってきた。そういうことばかりやってきた気がする。私は、開けてもらえた扉から私に見えた景色について話すことができたはずだ。
おそらく、信頼とは、そうやって築くものだったのだ。私は先輩に信頼してもらいたかったけど、そうなれなかったのは、私が私のことばかり考えていて、せっかく入れてもらえた他人の懐に入っても何も残さずに勝手に出ていく、クソつまらない人間だったから。ただそれだけなんだろう。

先輩はその何年か後に、蔵書を私に20〜30冊くらいくれた(処分したかったらしい)。難しくて途中でギブアップした本もあったが、少しは先輩に近づけるだろうかと思って長い時間をかけて読んできた。一応、2/3以上は読んでいると思う。今はもうSNSしか接点がないから、何をして何を考えているのか、更新されなければ何もわからない。いいねを押す他に関わり方がわからない。もしこの先会う機会があれば、もっと相手の話を聞いて、私の言葉で会話ができたらいいなと思うけれど、たぶんかなわない。それがなんとなくわかっているこの切なさは、実は、先輩の小説を読み終わった時に感じた気持ちにとてもよく似ている気がするのだ。

推し?

昔から周囲には男女問わずアイドルと呼ばれるものにハマっている子が何人もいて、私にはその気持ちがずっとわからなかった。お気に入りの競走馬とかはいたけれど。まず見た目が綺麗な人間が歌って踊っていることの何が尊いのかわからなかった。人間よりは音楽に興味があって、でもアイドルソングは凡庸でつまらないと感じていたので、そもそも興味がなかった。たまにインディーズのアイドルでちょっと攻めた曲を耳にして気に入ることはあっても、アイドル本人に興味が向かない。アイドルは私の方を向いていないと感じていて、それが原因だった。圧倒的な呼ばれていない感。女性アイドルは結局異性愛者の男性のほうを向いていると感じていた。なんでそう感じてしまうかといえばそれは男性客が多いしお金になるから、ただそれだけで彼女らに罪はないのだが。チェキとか握手とかの文化も気持ち悪いし、なによりライブが無理で、行けなかった。客が、ライブ中に大きい声でコール?とかミックス?みたいなことをしたり、踊ったりする意味がわからなくて、ばかみたいだと思ってしまう。私はほとんどバンドの音楽しか聴いてこなくて、ただ演奏を聴きたくてライブに行くことしかしたことがなかったから、そう思ってしまうのは仕方ないのかもしれない。

でも最近はKPOPを筆頭にガールクラッシュという潮流がもはや一般的にさえなっていて、そういったグループのMVは素直に素敵だなと思えるようになってきた。(男性が女性に向ける視線がどれだけ嫌だったんだろう) もちろん男性ファンだっているのだろうけど、私の身の回りにはほとんどいない。日本のアイドルとは女性ファンの規模が全く違うと感じる。そういうグループを知って、私にも好きになる権利があるというか、憧れてもいいグループがあるんだ、とはじめて思った。

私はなんとなく彼女たちをアイドルグループと呼ぶのが嫌で、ガールズグループとか、ダンスボーカルグループとかわざわざ呼んでいる。日本のアイドルがあまりにもあこぎな商売をしてきたから、アイドルという言葉が汚れてしまったように感じている。

ここ数年はMAMAMOOとか、aespaとか、LE SSERAFIMとか、NewJeansとか、XGの音楽がすごく好きでたくさん聴いているし、作り込まれたMVも魅力的でたくさん再生している。これらのグループはメンバーの顔と名前が一致するくらいにはなった。特にNewJeansのヘリンちゃんが好きで、私は富江みたいな顔の女の子がどうしても気になってしまうんだなと思う(同じく富江顔な中国のコスプレイヤー、周仙仙耶ちゃんも大好きです、インスタフォローしてます!)。

プロデューサーのミン・ヒジンという人は、アートムービーみたいなコンセプトのアートディレクションが非常に得意なのだということを知った。また、少女性愛的な傾向が批判されていることも知って、ああ、まだ葛藤しなければならないんだなと思ったし、私に似ていて、そりゃ好きになるか、私もこの人も大概気持ち悪いなあと思った。散々男性ファンたちを気持ち悪いと言っておきながら私だってかなり、惹かれる女の子には少女的なところがあって、ロリコンだと思う。ただ私はそれを大きな声で言えない程度には恥じていて、恥じることなく楽しめる人たちを妬みながらバカにしていただけなのかもしれない。結局アイドルを推す、ということの罪について考えずにはおれない。メンバーの年齢を知って、ひー、児童労働……思いながらどうしようもなくNewJeansが好きだ。(AttentionのMV公開一時間後から注目していたおじさんはおそらくそういうことも何も知らず、あるいは知っていても深く考えることなくああいうことをツイートし「最近流行りのアイドルにも注目しちゃう俺」に気持ちよくなっちゃっているので、お話にならない。ご丁寧なエゴサーチとブロックに感謝)

彼女たちはあまりにも遠いところにいて、どうしたらいいかわからなくてペンライトなど買ってしまった。夏の終わりに届く。コンサートにも行ってみたいけれど、コール的なものを我慢できるのだろうか、それはまだわからない……。

私が今ランダムでロック画面に設定しているヘリンの写真はどれも、一枚も笑っていない。あなたは私のためには笑わなくていい。このクソみたいな世界と私を猫の目で睨みつけていて。

なんで自分がここにいるのかよくわからなくなってきた。なんでこんな変な名前で変な顔なのか。なんでここにこの人と住んでこの仕事をしてこの音楽を聴いててこのバンドをやってて週末に練習に行くことになってるのかなんで今ベランダでタバコ吸ってるのか、なんでこの銘柄なのか、なんで明日やらなきゃいけないことがあるのかなんでこの服を着てこの髪色でこの姿で生存してるのか、この人と友達なのか、今日何食べたのか、何がしたくて何がしたくないのか、何に満足して何にしていないのか、なんでこんなに部屋が散らかっているのか、なんで風呂に入らないのか、なんで毎日スペイン語で日にちと曜日をつぶやいているのか、何がなんだかもうわからない。何もわからなくなりたいのに何もかもが目の前にあって、意味とか由来がある、なんだかとても簡単なことのような気がするし、同時に難解なような気がする。なんで愛されている人ばかりすぐ死んでしまったり病気になったりしてしまうんだろうか。なんでありもしないものを信じている人がたくさんいるのか、何もわからないが、わかるときはずっとこないのだろうと思う。すれ違う人には優しくできるのに、自分のすぐそばの人や自分を全然大切にできないのはなんでなのか。辛いことばっかりだった気もするし、楽しいことしかなかった気もする。楽しいってなんだっけ?全部嘘だったかもしれない。頭の中のある成分が血液にたくさんあるだけで、それは本当に楽しいってことなんだろうか。逆に、ある成分が足りないだけですごく足りない気持ちになるけど、それは本当に悲しみなんだろうか?