公開からしばらく経ってしまったがようやく観た。勝手にまた2時間半くらいの大作だろう…と思っていて、腰痛の懸念もあり躊躇っていたが、実際は2時間ないくらいだったので挑戦。帰りの電車で結局痛みが出てきてしまったがなんとか集中して観られた。
パンフレットを読んで、これは元々石橋英子さんが企画し、演奏と組み合わせるために制作された映像作品が元になっていることを知った。そちらも、今後ももし機会があればぜひ観てみたい。
(以下、結末に関する記述を含むのでまだ観ていない方はご注意ください)
悪は存在しない、というタイトル、わかりやすく悪者のような高橋や黛がだんだんと地元民に歩み寄る姿勢を見せていくので、絶対的な悪人はいない、ということなのか?と思っていたら主人公が最後に突然殺人を犯すので呆気に取られ、どういうこと?と思いながら映画館を出た。
半矢の鹿、またはその親鹿は人を襲うこともあるという情報が強調されるので、巧と花は鹿なのでは?というのは容易に想像できるのだが、もしかするとあの親子だけでなく、住民たちも鹿なのではないかと思った。山のことをよく知る老いた鹿や、人間に対して好戦的な態度をとる若い鹿がいる。 群れの子どもがはぐれたら捜索に協力する。
区長は捜索に参加せず、植物に囲まれてじっと外を伺っていた。彼も森の生き物だとすれば、鹿ではなく鳥なのではないか。羽をもらって喜ぶ場面や自然の摂理を俯瞰するかのような言葉、親族が音楽に関わっているらしいことも鳥を想起させる。
そして言わずもがな高橋と黛は人間。人間社会には芸能があり、福祉が整備されている(黛の前職や給付金)。IT技術があるから離れた場所の人間と会議ができるしアプリで人と出会う。
越境する者(移住を考えはじめて鹿に加わろうとする高橋と、羽を探してて鳥を追う花)は死んでしまうが、これは自然の摂理を超えてバランスを危うくするものへの天罰、罪の烙印ということなのではないか。
黛は捜索に参加せず巧の家にいて、日没とともに家の中に戻っていく。鹿に関心を持ち、歩み寄ろうとはしつつ、水の重さや木のトゲで怪我をした痛みから、自分はこうは生きていけないと悟って深入りは避ける。
ただしこの読みをすると、人間から鹿になったうどん屋の夫婦はどうなんだという疑問は残る。三人が店に来たとき、境界を脅かす高橋にだけ攻撃的な態度をとり、花の捜索にも参加するので、鹿と共生する別の生き物なのか、あるいは最初から鹿だったから人間の世界からこちらに移り住んだのか?
また、鹿猟が行われているということは、鹿と人の衝突が別の場所でも起きていることも意味しているだろう。実際、水挽町はよそ者によって栄えてきたというような話もしており、言ってみれば鹿たちも"先住民"ではない。写真でしか登場しない花の母=巧の妻は、うっかり人間の領域に足を踏み入れて殺された鹿なのではないかと思った。グランピング場ができたら鹿はどこに行くんですか、という車内の会話で巧の顔が真っ暗に映し出されるのは、住む場所を追われる鹿の悲しみにも、家族を殺された怒りにも見える。
越境する者、という点では巧も当初から危うい立ち位置にいる。ほかの種族である(と読める)区長やうどん屋とも盛んに交流し、人間の話を聞いてみようとする。そして最後には人間を殺してしまう。
ラストシーン、夜の森を見上げながら移動する映像とともに巧が息を切らして走る音がする。前の場面からは花を抱きかかえて車へ急ぐ姿を想像できるが、あれは一線を超えてしまった恐怖から夜道を駆ける鹿なのかもしれない。