my lips are sealed

tamavskyのB面

#いいねで影響を受けたアーティストについて自分が語りたいだけ

 

このツイートに14いいね(11月7日時点)がついたので14個分、
私が影響を受けたアーティストについて書きます。

 

 

1. Weezer

おそらく、私が物心ついてから初めてこのバンドの曲が好きだ、と認識したのがWeezerだと思う。それもあって彼らの音楽のポップさ、ナードっぽさ、まああとはギターの存在感なんかも、自分が気に入る音楽にしても作る音楽にしても重要な指標として染み付いていると感じる。

 

2. David Bowie

母親がDavid Bowieの大ファンで、幼少期からその名も知らないうちから聴いて育った。
様々な音楽を自主的に聴くようになりロックの歴史を学んでいくうちにその名を知り、その麗しい姿と美しい旋律に惚れ込んでいくことになる。
彼の没後に開催された回顧展"David Bowie is"で彼の言葉や衣装の展示を観て、彼の表現についてのアティチュードに非常に共感を覚えた。

twitter.com

こんなbotがあるので特に共感を覚えた言葉を引用しておく。

僕は小さい頃、本当に内気だった。そんな自分が人前で歌うことなんてできないと思った。だからこそ、僕は変装することにしたんだ。

僕は、僕の心の中にある何か…アイディアやフィーリングを表現する為に、単に音楽を使ってるに過ぎない。さらに僕は、音楽を何か神聖なものとして捉えてるわけでは無くて、音楽をオモチャにして楽しく遊ばなければ、退屈で気が狂ってしまうと思っている。

僕にとっての作曲とは、他のどんな方法でも表現できない事を表現するための独自の方法だった。

私も、別に自分の表現手段として音楽だけを選択したわけではない。それが適切であるとか、それが面白いだろうと思ったときにはその手段を取るけれども、そうでなければ別の手段を取るまでだし、純粋な自分を曝け出して音楽をやろうとも思わない。彼がジギーを演じたように私も誰かを演じている。
例えばハク亜キッズではポップさにかまけて可愛らしく奔放に歌うベースボーカルの女性を演じているし、so it goesではエモーショナルロックやガレージロックが好きなボーイッシュな(というか、男の子に憧れている)女の子を演じていて、それぞれライブハウスに立つときのファッションや立ち振る舞いを変えるようにしている。自然と変わってくるような気もする。
芝居をする必要があれば俳優となり、絵を描かなければいけないと思えば絵を描く。文章を書く必要があれば、詩歌を詠む必要があれば……そうなる。

こうして改めて考えてみると影響を受けたというよりは、強い共感を抱いているアーティストなのかもしれない。
彼の音楽を聴くたびに、彼の死が本当に悲しくなる。寂しくなる。けれども、私もいつか黒い星になれる、火星に帰って行けるのだと思えば怖くないような気もする。

これは余談だが、私の飼っているメキシコサンショウウオの1匹にはZowieという名前を付けた。言わずもがな彼の息子の幼名からとった。Ziggyと迷って、呼び易いほうのZowieにした。そのサンショウウオアルビノで、立派なエラを持っている。その奇抜で美しい姿から彼を連想して、貰ってきたその日に名前を決めた。今ではかなりの大物に、そして美しい個体に成長している。

 

3. スピッツ

これまた幼少期から親しんだバンドである。

影響を受けた部分といえば歌詞の韻の踏み方。
草野マサムネの歌詞は母音だけでなく子音までもなめらかに口ずさめるよう緻密に構成されていると思っているのだが、それをきっと無意識的に行なっている部分もあるのだと思うとその才能に慄かざるを得ない。
私も歌詞を書くときは、同じメロディに詞をつけるときに自然に韻を踏むことが多いし、そうでない歌を聴くと「自分には書けないな」と思うし、それはスピッツを聴いて育ってしまったからかもしれないなあ、と思う。

ベースの存在感については影響を受けたとはまだ言えない。憧れの域を出ていない。初めて生で田村さんのプレイを観た時、私はベースをやっていて本当に良かった、と心から思った。この楽器はこんなにも格好良いのだと改めて教えてくれた偉大なベーシストだ。

 

4. COALTAR OF THE DEEPERS

高校生の頃に友人に教えてもらってからじわじわと効き始め愛を深めていったバンドである。
他のバンドにはないコード感、シューゲイズとは一線を画すハードさに撃ち抜かれた。
彼が多用する5度抜き7thコードはかつて細々とやっていたバンドでかなりパクらせていただいたので影響を受けたアーティストとしておく。
いやこのバンドはどっちかというとBP.とMoonwalkのワナビーだったな。かたくなに英語の歌詞だったし。ひっくるめさせてください。
そういえばかつて所属していたバンドもCOTDフォロワーだったから加入したのだった。そのバンドでベースを弾いていたおかげで色々な場所へ行けて、友達も増えたので、そういう意味でもCOTDを好きでよかったと思っている。BP.とは共演もできたし……(活動休止?解散?しちゃったし、それはもう一生の思い出)。

 

5. VELTPUNCH

都内のライブはだいたい行っているくらいには好きな日本のバンド。
オルタナティブロックからの強い影響とキャッチーさが同居するサウンド、ライブの楽しさ、さらにグッズのかわいさ、本当になんて理想的なバンドなんだろう!
so it goesの音楽はわりとそういう感じで(もうちょっと暗くしたいけど)作っていきたいなーなんて思っている。

 

6. 村上春樹

ここまで音楽が続いたので次は文学で。
なんだかんだで影響を受けているのは彼なのかなあと思う。自分の書く文章というよりは、ライフスタイルや考え方の点で。
大学で近現代の日本文学を専攻していたので教材としても彼の作品は通らざるを得ず、阪神淡路大震災以後のデタッチメントからコミットメントへという意識の変化やそれによる改稿のことを知って、ああ小説とはただのストーリーではなく、作者の魂が宿り変化し続けるものなのだなと、入学当初ただの”読書好き”であった自分が文学を研究対象として捉える良い準備段階になったように思う。

また幅広いジャンルの音楽や映画を愛し、(たしか)猫を飼っているところなんかも、ああ、いいなあ、そうやって生活したいなあと。憧れの文化人だ。

エルサレム賞での「卵と壁」のスピーチも印象に残っている。ネットで全文読めるので検索してください。

 

7. ルネ・マグリット

私は表現の際に何を伝えるかより「どのように伝えるか」を考える形式主義的なところがあるので、イズムの時代の美術はどれも面白いと思う。

中学生ごろから奇妙なものが好きだったので、見事シュルレアリスムにハマり、その中でも特に好んだのがマグリットの絵だった。
単純に絵が好きだったのだが、大学生の頃ちょうどやっていた企画展へ行って文献の引用を読んで意識が変わった。彼は現実における物質と意味・記号について、様々な思考を重ねてあのような作品を作り上げているのだと知って「なんて面白いアーティストなんだ!」とそこでようやく理解に近づけた気がした。

写真が、映画が現れ、絵画が記録としての存在意義を問われたその時に生まれた無意味性、記号の脆弱性、語り手によるミスリード……そういう絵画作品の面白さにはいつまでも惹かれる。

で、どう影響されたかといえば、私は小説も絵も夢の中で起こったことを書いていることが往々にしてあって、夢の世界での非合理性をなんとかそのまま持ち込めないかと結構頑張る。そのときに彼の実験的な作品たちを思い出す。そんなところである。

 

(やっと半分かよ!14って結構ある!だんだん手短になっていくのは許してほしい)

 

8. 岡野大嗣

現代歌人で一番好きなのは彼かもしれない。
生活の中で感じる季節だったり、ふとした仕草で思い起こされることだったり、
自分の目で見て、自分の肌で感じて頭の中で起こった小爆発を短歌の形にするというところ、私が詠むものと近いように思う。好きで影響を受けた、というより、読んでいていちばん自然に思ったのでそのかたちに自ずと寄り添っていくような、そういう影響の受け方だと思う。

私の短歌は主観的に、卑近になりすぎるきらいがあると自覚しているので、もう少し高いところから広い範囲をみなくっちゃ、とも思うけれど、ひとりごとのような岡野さんの短歌に触れると、それでも光るものはあるよな、と勇気づけられたりする。

最近出た歌集『たやすみなさい』も本当に素晴らしいです、皆さん買いましょう。

 

9. ポール・オースター

私は偶然を好む。衝動的で空想家である人間は大抵、必然よりも偶然が好きなのではないかと思う。そんな偶然をよくテーマにしているオースターの小説が大好きだ。
何か起こりそうで起こらない系の小説も好きだし、何か起こりそうで起こらない話ばかり書いてしまうから、それほど意識したことはなかったけれど、きっと影響を受けているんだと思う。こういうアーティストとは、何に魅力を感じるか? というアンテナの方向が似ているのかもしれない。

 

10. 松永天馬

ミュージシャンとしても、文筆家としても、俳優としても、映画監督としても活躍する彼。私も表現全部自分でやりたいマンなので彼のスタンスには共感と尊敬と憧憬しかない。
そして彼の作品は自身が影響を受けてきた作品へのオマージュでいっぱいだ。作品単体でも面白いし、わかる人にはわかる小ネタがあるともっと楽しい。私に表現と感受の魅力の果てしなさを教えてくれたアーティストは松永天馬だと思う。

 

11. グレタ・ガーウィグ

そろそろ映画監督を上げたいところなのだけれど、自分の好きな”監督”といえば……エドワード・ヤンデヴィッド・リンチガス・ヴァン・サントラース・フォン・トリアーポール・トーマス・アンダーソン……こう並べてみると、どの人からも別に影響らしい影響は受けていないような……(まあトリアー作品の精神病的なところやインモラルな性質なんかは若干似ているのだけれど、影響というより共鳴である)

それで好きな”作品”のほうを色々思い出してみたのだけれど、パッと浮かんだのが『レディ・バード』そして『フランシス・ハ』で、ああ、彼女がいた! と膝を打つことになった。

人生は冒険と妥協の繰り返し、そこに輝きも二日酔いも見出すところ、本当に自分にぴったりの作品に出会えたなあと思った。観て面白かった映画はだいたい人に勧めるけれども、彼女の映画は別に誰かに勧めて感想を共有しなくても、私にドンピシャに刺さったからいいんだ! と思っている。

もし私が映画を撮るなら、マンブルコア的なテイストにしたいなとなんとなく思う。

 

12. みうらじゅん

父がファンなので著書がほとんど家にあった。何かにのめり込む力が強すぎて、その執念で本を出しているイメージ。漫画家だったのを忘れがち。『ない仕事の作り方』という最近の著作を読んでもその印象はそのままだ。人の顔色を伺う(わりに何も読み取れず他人を傷つけまくる)癖のある私は、何かに惹かれたときどうしても「それが評価されているか」「世間一般ではどう思われているのか」といったことにも興味が行きがちなのだけれども、彼の存在や仕事が「そんなことどうでもいいよ!」と語りかけてくれている気がして、影響というか、勇気をもらっている。

 

13. ラーメンズ

もうシンプルに大好きである。
わかる人にはわかる系ギャグやオマージュがよく出てくるので逆にそこから学んでいくというのは筋肉少女帯アーバンギャルドと並んで大いにあった。お世話になりました。(そういった表現はともすれば内輪ノリというか、つまらなくなりがちなのだが、そのあたりはほどほどなのもよい。)

先日自主企画で上演するために脚本を書いたが、単純明快なようで考察しようと思えばできる内容にしたくなるのはこの人たちの影響があるのかもしれない。
あと舞台と衣装の色が揃っていて、小道具も最小限でやるスタイルも好きで。どこかの小屋でやるならそうしたいなーと思っている。実現はいつになるやら……。

youtu.be

とりあえず特に好きなコントを載せておくけれども、公演ごとにすべて観ることを強くお勧めする。

怖いコントとして有名な「採集」も前半はただただ面白いからすごいよなー

 

14. 有江嘉典

ところで私はメインの肩書きとしてはベーシストなはずなのだけれど、ベースは誰から影響を受けたのか書かないのか!? と思われそうなので最後に書いておく。

といっても正直なところそんなに「この人になりたい!」みたいなベーシストはいないのだ。ライブに行ってもだいたい~みんなちがってみんないい~みたいな気持ちでベーシストを観ている。ただし足元やアンプは一応チェックして、気に入れば真似る。

遡ること十余年、中学生の頃の私はとりあえずバンドがやりたくてしかたなかったのだが、自分でもできそう!と思ったのがベースだった。失礼すぎる動機ですみません。だがその楽器に目をつけたきっかけになったのは誰かといえば、VOLA&THE ORIENTAL MACHINEのベースの有江嘉典さん。ルートで結構弾きまくる感じのプレイスタイルは未だに影響を受けているといっても過言ではない。だってそれが一番格好良くないですか? スラップを格好良いと思ったことがない……。

彼はピック弾きだけど私が指弾きなのは、私の頭がちょっとアレでピックを秒で失くすからだ。あと、ピアノの経験のせいか指のほうが小回りが利く気がする。

手が小さく(これは言い訳ではなく誇張なしにかなり小さい。同じくらい手の小さい人間に会ったことが本当に1人くらいしかいない)、コードを覚える必要のあるギターは、とにかく感覚的、衝動的で頭より体が動いてしまう自分には向いていなかったのだと思う。ピアノを習っていたおかげでコードを弾く楽器という存在がピアノで補えていたのかもしれない。そしてメインのフレーズを奏でる楽器への欲もおそらく吹奏楽部で担当していたフルートで満たされており、なんとなーくベースという楽器へ導かれていったようだ。

 

youtu.be

 

公式のビデオじゃなくて申し訳ないんだけど青木裕がいた頃だったためちょっと感動してしまったので貼らせて……あとこの曲が単純にすごく好きです。暗くて。

 

 ***

長かった……ツイートにまとめなくてよかったと思った。
好きなアーティストと影響を受けたアーティストとは似ているようで少し違っていて難しかった。自分の表現を見つめる良い機会となった。いいねを付けてくれた14人の皆様、ありがとうございました。

11月の始まりの季節には

帽子がないとか困った事ばかりさ。

 

治療近況。

カウンセリングを始めた。明日で第3回。とても信頼できる話し易い心理士さんに出会うことができたので継続してみようと思う。これまでの人間関係でのトラウマを紐解き、リラックスするための呼吸法などを教えてもらっている。申し訳ないけれど友人も家族もあまり信頼できない(信用はしている)し、してはいけないという強迫観念からは逃れられていないので、やはり“プロの赤の他人”を利用するのが性に合っているなと思う。

復職のタイミングは、何もしたくなくなったらで良いと言われた。私は旅行だけはやり残したなあと思っていたので、今月ほとんど無理やりに旅行の予定を入れて、来月からは復帰を考えている。

それから最近ADHDの弊害かもしれないが不眠が復活しているので、睡眠導入剤ブロチゾラムからベンザリンに変更した。一週間服用しているが寝つきはかなり改善されている。

また、友達に貰ったラベンダーのお香がとてもリラックスする香りだったので、眠る前に必ず焚くようにしようと思う。パブロフの犬のように。おそらく私は自己暗示にかかりやすいというか思い込みが激しいというか、そういうところがあるので、入眠儀式みたいなものを作ると、うまく眠れる気がする。キャンドルは火を消さないとちょっと怖くて眠れないけれど、コーンのお香で10分ほど経てば燃え尽きてくれるからいくらか安心である。

 

10月の末から今日まで、東京国際映画祭があったので何本か気になるものを観てみた。

『動物だけが知っている』『わたしの叔父さん』『夏の夜の騎士』は大当たり。
『永遠の散歩』もなかなか。監督が若く意欲的で、刺激をもらった。
AKIRA』をスクリーンで、映画館の音響で観られたのも貴重な体験だった。
アトランティス』は後半ちょっと寝てしまった。暗かった。
『ディスコ』も消化不良感があるがキリスト教圏ではないからかもしれない。

色々な国の映画をいっぺんに観ることができたのは楽しかった。それぞれの国の風景、空気、文化に触れ、旅をしたような気分になった。
監督や出演者によるQ&Aセッションも面白かった。今後も映画を観るときはトークショーのある回を選んでいきたいなと思う。私は映画を観るのが好きだけれど、作ったことはないので、作り手の話をもっともっと聞きたいのだと思っていたことを自覚させられた。

 

それから、先日、バンドの自主企画を開催した。
音楽だけでなく演劇やライブペイント、フードもある文化祭のような日にすることができた。
音源にあわせてZINEも作り、あらんかぎりのアウトプットをこの日に行った気がする。翌日は何もできず燃え尽きたように寝て過ごした。映画とライブのチケットを無駄にしてしまった。

ただのインディーズバンドマン風情が大袈裟かもしれないが私は表現を続けていかなければ死んでしまうんだと思う。というか、誰かに見てもらうことでやっと存在を実感できる。そのわりに一人でいることが好きだけれど。企画や演劇や映画祭で人と話し続けて少し疲れてしまった。このブログもお気に入りの喫茶店で一人で書いている。

 

最近は晴れが続いていてうれしい。明るい。

今朝、はやく目が覚めてしまったので雲ひとつない空をベランダから見ていると水晶体の中の気泡が元気に泳ぎ回っていた。
4月に有休をもらって友達と朝から町歩きをした日と同じくらい青いな、と思った。半年以上前の日の空の色を覚えているなんて我ながら粋だ。その日は飛行機雲がよく出ていた。桜と菜の花が咲き誇っていた。

けれども今日の空のことは果たして思い出せるのだろうかと不安に思う。

JOKER ジョーカー について

10/4の公開日と、10/9に2回鑑賞した。

(決して全ての映画を観ているわけではないが)私が今年観た映画の中では、暫定ベストである。

 

この映画を観て、感じたことや考えたことがあまりにも多かったのでブログに書くことにした。

 

ちなみに私はバットマンシリーズの映画を一本も観ていない。

ごめんなさい。

 

以下、ネタバレを多分に含みます。ご注意ください。

 

 

 

***

 

・アーサーの笑い方

3種類くらいあったように思う。

一つ目は発作の笑い。

人から責められていると感じた時、緊張した時、不安を押し殺すように、眉間に皺を寄せて苦しそうに笑っている。

二つ目は作り笑い。

他人が笑っているとき、合わせて笑う。裏声でハハハ!と笑う。本心でないのでタイミングがずれておかしなときに笑ってしまうことも。

彼は会社やコメディクラブで飛び交う性的なジョークや差別的なジョークでこの笑い方をしている。別に面白いなんて思っていないのだ。彼自身には性別、障害、人種をネタにする考えはどうやらないようだ。

三つ目は、本当に面白くて、楽しいときの笑い。

差別的なジョークで笑わない彼にはなぜか、人が死ぬ話が面白いらしい。日記に書かれたジョーク「硬貨な死を望む」、マレー・フランクリンショーで披露した息子が轢き殺されたという話。

それが彼の本性、すなわち悪であることを示唆しているのではないだろうか。

 

・アーサーは「無敵の人」なのか?

Twitterなどで見かける多くの意見が、「これは無敵の人の誕生過程だ」という解釈。

私も1回目の鑑賞時には同じことを考えたが、2回目で考えが変わった。

いわゆる「無敵の人」は社会的に失うものがなくなったために倫理を捨て、自分を見捨てた社会へのルサンチマンを動機に犯罪に向かう者、として定義されていると思っているのだが、アーサーの場合は少し違っている気がする。

証券マンを射殺したのは完全な衝動だ。その事件の時点で彼は、職さえ失っているものの母との暮らしを営んでいたし、同じマンションの女性に関する妄想も解けていない。発作の笑いにイチャモンをつけられ、暴力を振るわれたときに身を守るためか怒りからか咄嗟に撃ってしまう。そこで思い留まれば3人も殺さなくてよかったはずだが、追いかけてまで最後の1人を至近距離で撃つ。

そして逃げ込んだトイレで彼は踊り、鏡に映ったもう一人の自分、あるいは本当の自分、“ジョーカー”を発見するのだ。

彼は母の診療記録を見に行った病院ではっきりと「スッキリした」と言っている。

しかし社会では富裕層への不満が募り、殺人ピエロを支持する風潮が生まれ始める。

更に母や自身の生い立ちの真実を知り、自分が社会から本当に見捨てられた存在であったことを知り、恋人の妄想も打ち砕かれる。

彼はこれを機に「無敵の人」の仮面を後付けで被り始めたのではないだろうか。

確かに彼が欲していたのは誰かから認められ、優しくされることだった。家族からも社会からも見捨てられた存在だと自覚していた。彼にとってそれは悲劇に思えたが、社会の流れが衝動的な殺人を正当化し始め、続いて怒りに任せて母や元同僚を殺すことにも無抵抗になり、攻撃と破壊によって人生を喜劇に昇華するに至る。

 

・アーサーの病理

彼は精神疾患を抱えている。かつて閉鎖病棟にいたことも語られる。しかし受けている治療はお粗末なもので、7種類も薬を出され、カウンセラーはまるで話を聞いていない。挙句、それらの福祉サービスも打ち切られてしまう。

彼が証券マンを撃ち殺したのは薬を飲まなくなってからだということに2回目の鑑賞で気づいた。彼の内なる攻撃衝動は、治療によりある程度抑えられていたのではないか、とも考えられるだろう。

また、健忘の症状が観客のミスリードを誘う。閉鎖病棟にいた意味もおぼろげで、救急車の中で母と最後に話したのは?と問われても「さあ……」、すぐには思い出せない。

それゆえ母とその恋人から虐待されていたことも忘却していたのである。彼が受けた心の傷や衝動の大きさは察するに余りある。

これらの悲惨な状況からアーサーに感情移入してしまった人も多いだろう。

もう一つ気になったのは、日記を左手で書いていたことだ。彼は別に左利きではなかったはずだ。タバコも、拳銃も右手で持っていたと思う。これについてはもう少し意味を考えてみたい。

 

・階段

アーサーが階段を下りるシーンは社会からのドロップアウトに重なる。

上司に楽器屋の看板のことで叱咤されるとき、会社をクビになるとき。

しかしながらその堕落の階段の先が開放的な光に溢れていることはなんとも皮肉である。

ただし母の診療記録を奪って読むシーンでは闇の中にいる。

そして自宅から街へ出ていく長い階段を、光を背に踊りながら下りていくシーンで彼は完全にジョーカーへと変貌する。

 

・対比の演出

カウンセリング帰りのバスの車窓での憂鬱そうな顔と、逮捕されたパトカーの窓で燃えさかるゴッサムシティを見つめる笑顔。

序盤で看板を盗られ不良少年を追いかけるピエロのアーサーと、終盤で警官二人に追われるジョーカー。

社会的弱者のアーサーと力を得て強者となったジョーカーとが対比されている演出は面白く、スリリングだった。

 

***

 

1回目の鑑賞ではジョーカーへの共感、ジョーカーが現れればいい、ジョーカーになりたい、そんな怒涛の感情と、自分は人間として善く在りたい、という倫理との間で引き裂かれるような気持ちになった。

2回目の鑑賞では、ジョーカーに多少の同情はするものの、ジョーカーは何もかも間違ってしまった人だったのだ、と思った。何もかもを間違って、それをアイデンティティとするしかなくなってしまった人。

彼が悪のカリスマとなったのは、共鳴した人々に車から引き摺り出され祭り上げられたように、衝動が衝動を呼び、求められたからだ。

だからきっと、いわゆる「無敵の人」は、そんなに簡単に生まれるものではない。

全てを失い、社会に恨みを抱く者が無敵となる最後の決め手はやはり、本人の衝動と、社会の要求だ。

 

「無敵の人」によると思われる犯行が起こるたびに、その存在の発生を危惧する声と同時に、ダークヒーローとして要求さえする雰囲気も高まっているように感じるのは気のせいだろうか。

気まぐれに短い歌を紡ぎ出し夕まぐれの部屋を満たしていく

9月はあっという間に終わってしまった。私はいまだに8月の終わり頃の気分だ。大人というものは気をぬくとどんどん置いてけぼりになるのだなあ。

 

9/30は笹井宏之賞という、短歌の新しい賞(今回が第二回目)の応募締め切りだった。

約半年をかけて短歌を詠み、50首の連作にまとめた。

特に好きな現代歌人の永井祐さんが選考委員にいらっしゃるので、少しでも目を通してもらえるのが嬉しい。

 

読んでもらった友人にも指摘されたが主観に寄りがちなのでもっと周りへの観察眼を磨かなければならないし、その表現のために語彙を増やしていかなければと思う。

それから、精神的苦痛を直接的に表現するとむしろうまく伝わらない、かえって攻撃的な印象になってしまう。この問題によって何作も没になった。

 

ところで、これまで私が文章を書くフォーマットは専ら小説の形であった。また、大学で学んでいた近現代日本文学も研究対象は小説ばかりであった。そのため、詩歌についての知識はかなり乏しく、どんな潮流があったのかについても、今更後追いで勉強しているところだ。

 

短歌に改めて触れたのは3年前、22歳の誕生日に、友人から笹井宏之さんの歌集『八月のフルート奏者』を贈られた。私がフルートを吹くので、その繋がりで選んでくれたのだ。

どこまでも優しい言葉と美しいリズムに何度も唸らされ、『えーえんとくちから』を読んで完全に虜になってしまった。

 

素敵だと思ったものは全てやってみたくなるのが私のさがで、気が向いたときには短歌を作ってみることが増え始めた。

 

5・7・5・7・7の31文字という制約の水槽でどれだけ泳が回れるか、飛沫をあげられるか、はたまたじっと底に潜り沈んでいられるか。

もしくは虫かごの中で羽ばたいてみるのか餌を貪り食うのか眠っているのか。

そしてたまには脱走して外の空気を楽しむ。

そんな不自由と自由を遊ぶ感覚で、思いついたらすぐにiPhoneのメモに書き留め、作り続けてきた。

 

出来上がった歌たちは日記のようであったり、愛する者や憎む者、自身、世界中の全ての人々への呼びかけであったりする。

それが何処かの誰かに届くことがとても嬉しい。

 

私の歌はまだまだ未熟で、きっとおそろしく拙いものだと思う。箸にも棒にもかからないだろうとは思っている。

短歌ムックの「ねむらない樹」のページを繰るたびに、なぜこんな歌が作れるのか!と素直に感嘆してしまう。

 

まずは歌会に参加してみたい、と思っている。

神保町歌会はいつもすぐに満員になってしまって、まだ行けていない。

 

学生時代から始めていれば、きっとサークルなどに出会えていたのだろうなあと口惜しく思う。しかし年齢を気にしてチャレンジしないこは私にとって最も恥ずべきことだ。

24歳からの短歌の道、どうか険しくもあたたかくあれ。

 

苦しい

時々考える。

私は現在ストレスで体調を崩し労働から離れているが、そもそも私には労働が向いていないのではないか。労働者としてやっていくだけの精神力は元から無く、高すぎる理想を掲げ、高すぎるプライドを守るために立派な労働者としての人格を作り上げていたのではないか。

そしてそれが崩壊し、「作り上げていた」ことに気づいてしまった今、再度作り上げることが非常に難しいと感じている。


人事部からのメールを送れず何日も先延ばしにしてしまう。目上の人に送るに堪える文章が作れない。社会人としての自覚が消え失せている。きっと薄っすらと失礼なメールを送っているに違いない。憂鬱で読み返すこともできない。

かつて感じていた自己啓発、自己研鑽への欲求も今は、遠いところにあり手が届かない。この状態で開発系の部署に戻ったところで、何のスキルも得ようとしない、かつて見下していたような人間になるのではないか。


善く在りたい、ということについては近年よく考えるようになった。過去の軽率で攻撃的な自分が意味もなく傷つけた人々への贖罪のため、あるいはそのことによって自尊心を保つために、せめてこれからは善く在ろう、と。

しかし、善く在ろうとすればするほど己の醜さに耐えきれなくなることも増えた。更に同じ醜さを持つ者への攻撃的な態度に転じることも危ぶんでいる。

誰も傷つけたくはないが、誰も傷つけないことは不可能だろう。それでも私は出来る範囲で善く在りたい。更に善く在る為には視野を広げなければならない。視野を広げると己の醜さが目について苦しい。


苦しい。ひたすらに苦しい。

なぜこれまで平気で外を歩けたのか、他人と話ができたのかわからない。身だしなみを整えることはこんなに気が向かなかっただろうか。ドレッサーの上に散らばる化粧品たちはちょうど5月から新顔が現れなくなった。いまや本当に不快に思うまで風呂にも入れない。ベッドから出るのが辛い。心臓に重しが乗せられているように苦しい。

人の話を聞くのが辛い。その口から出るほとんどのことに興味が持てない。なぜ人は同じ話ばかりするのだろう? 答えに苦しむので全てに同調するしかない。もはや数式や歴史の問題を出されているほうが気が楽だ。


復職という選択が正しいのかどうかもうわからない。蓋し最も簡単で、最も安全と言える。最低限の収入を得られ、考える時間はまだ1年以上も残されている。

しかし苦しみは続く。就活で、新人研修で、配属先で演じていた立派な私の人格を期待されていることをひしひしと感じる。ハキハキとしていて、人前で話すことが得意で、メールや電話対応が丁寧で、小綺麗で、知的好奇心が旺盛で、多趣味で……。

そんな人はもう死んだのだと言いたい。


死にたいというより楽になりたいと思う。

首を吊るのは苦しいし、飛び降りるのは恐怖を伴う。練炭はどうだろう? 焼身は本当に最悪の方法らしい。死ぬ方法はいくらでもあるが、楽になる方法を見つけるのは本当に難しい。

「楽」に近づく方法としてストロング系のチューハイを飲むことが増えたが、そもそもあまり酒に強くないので悪酔いしてしまったり、胃腸が弱くお腹を壊してしまうこともある。苦しみが増えることはしたくないので、アルコールはいつでも万能というわけではない。

現時点では、(可能ならば適量の酒と)睡眠薬抗不安薬を少し多く飲んで寝て全てを忘れることが一番安全で確実だ。

それでも眠れない日や翌日に予定があり睡眠薬を飲めない時(睡眠薬を多めに飲むと翌日は身体がひどくだるいのだ)は地獄だ。


いっそ幻覚や幻聴が現れれば良いのに。一人で苦しむのは辛いが、この苦しみに他人を巻き込むことも辛い。自分自身の中で全て済ますことができたら良いのに。そしてひっそりと皆から訝しがられ、煙たがられ、記憶から消えてゆきたい。

リハビリテーション

 

juno.hatenadiary.jp

 

この日ぶりに、通勤ルートを通った。
用件は、復職に向けた人事との面談だ。

 

未だに体調は波があり、冷房と暑さとで自律神経がやられている。
ただ、この頃気が向いたら銭湯とサウナに行くようになって、その日はよく眠れる。
復職を考えるに至った大きな理由は三つ。

①復帰後のキャリアプランが見えてきた
②退職したらやろうと思っていたアルバイトが不採用だった
③お金がない


①復職後のキャリアプランが見えてきた
 休職して2か月が経過した頃、会社の先輩2名に連絡をとってみた。
 2人は開発系の部署に所属しており、新人研修などにも協力している。
 比較的残業が少なく顧客対応もほとんどないため、
 私のようにストレスから休職した社員の復帰先になりがちな部署である。
 個人的にはそのレールに乗るのは若干癪なところもあったのだが、
 勉強熱心な雰囲気や採用・教育にも携われること、
 私と技術的興味の範囲が似ている先輩がいることから
 できればこの部署でやり直したい、と考えるようになった。

②退職したらやろうと思っていたアルバイトが不採用だった
 実は休職中に気になるアルバイト募集を見つけて応募していた。
 そのお店はスタッフも店長さんもとても気さくで楽しく働けそうだと思っていたが
 残念ながら不採用となった。
 きちんと合否の連絡をしてくださった上にぜひまた遊びに来て、と言ってもらえた。

③お金がない
 最も大きな理由である。
 全財産が4000円になった瞬間があった。まず社会的死を覚悟した。
 傷病手当金は当該月が終ってから申請するため、支給が給与のようにはいかない。
 しかし給与支給日を軸にした家賃、光熱費、カードの支払い期限たち。
 そして2週間に1回の通院、処方薬。
 半ば衝動的に復帰プランを相談させてくれと人事に連絡をとってしまったが、
 人間、金銭的余裕がなくなると恐ろしいほどに悲観的になる。つまり加速する鬱。とても面談などできない。
 それで少し間が空いてしまったのだが、先日19日に面談を済ませてきた。


結果としては、今月末の通院で主治医に復職について相談し、しばらくは時差出勤、週5日未満の勤務を認めるということになった。
このとき初めて知ったのだが、たとえば週3日働くことにしたとして、休んだ週2日分は休職扱いとなって傷病手当金が支給されるらしい。いくらか安心した。

しかしこの日の夜、退勤時とほとんど同じルートで帰宅しようとしたところ電車でパニックに陥ってしまった。
ここへ来て不安要素が増えてしまったが、慣れるしかない。辛い記憶は上書きしてしまうしかない。
ということで、今日から週に3日程度のペースで、10時に会社の1駅手前にある無料のコワーキングスペースへ「出勤」し、書き物や読書をして過ごすことにした。ラッシュに巻き込まれぬよう、16時半には「退勤」する。

退勤中はできるだけ楽しいことを考えて好きな音楽をたくさん聴いていようと思う。

レンタルなんもしない人をレンタルした話

先日、「レンタルなんもしない人」をレンタルした。

 

依頼内容は、以下の通り。


仕事のストレスから体調を崩し、適応障害と診断され5月から休職しています。
人事部の社員から経緯や状況の確認のため面談を持ちかけられているのですが、
自分が通勤ルートを通って会社近くまでいけるのか、ということに強い不安があります。

そのため、リハーサルとして私の自宅最寄り駅〜会社最寄り駅を移動をして様子をみてみたいと思います。
とはいえ一人では不安が大きいので、レンタルなんもしない人さんに付き添っていただけないでしょうか。
緊急時には駅員さんを呼んでいただくくらいはお願いするかもしれませんが、恐らくそこまでのパニックを起こすことはないです。
また人と話していると気がまぎれるので、ごくかんたんな受け答えはしていただけると嬉しいです。

 

私の通勤ルートは乗り換え1回、片道20〜30分程度の、なんてことのない道のりだ。

しかし乗り換え駅を通過するだけで動悸が激しくなった事があり、しばらくの間は可能な限り通勤ルートを通らないようにしていた。特に乗り換え後の路線は休職してから一度も乗っていない。

 

DMを送った翌々日には返信が来て、空いている日程を提示していただき、幸運にも都合がついたのでお願いすることにした。

テレビや新聞でも取り上げられて注目され、多忙でいらっしゃるはずなので、まさか本当にレンタルできるとは思わず、正直なところ心が浮き立った。

 

当日の体調は良くも悪くもなかったが、念のため抗不安薬を飲んだ。

約束の時間になり、自宅の最寄駅の改札で待つが、それらしい姿はない。連絡を取ってみるとレンタルさん(と呼ばせていただく)と私はお互いに違う改札から入ってしまったようだったので、ホームで合流することになった。

改札を通ると、駅のホームの端から、見覚えのある背の高い男性が歩いてくるのが見える。キャップとリュック、おなじみの姿のレンタルさんだ。
よろしくお願いします、と挨拶を交わし、乗る車両の場所も通勤を再現する。
ほどなくして、電車がやってきた。

 

平日の午後、車内は空いており、二人とも座ることができた。

並んで座り、落ち着かないわけではないが、何か話した方がいいのかな……と持ち前のサービス精神が首をもたげる。が、あまり会話はしなかったと思う。

少しして、途中の駅でおばあさんが乗ってきた。杖もついているし、席を譲ろうと立ったら、同時にレンタルさんと向かいの席の女性も立った。周りの人がずらりと立ったのがなんだか可笑しくて空気が和んだ。

結局、向かいの席のほうが近かったのでおばあさんはそこに座った。彼女は電車を降りる前に私とレンタルさんに、優しい心遣いありがとうね。と声をかけてくれた。ついでに、あなた私の教え子に似てるわ。とも言われた。先生をしていた方なのだろうか。

そんな出来事もあり、通勤中ではありえないようなあたたかく平和な心持ちで、鬼門である乗り換え駅に到着した。

やはり駅名の文字を見るだけで胸がざわつくが、ずんずん歩く。私の通勤ルートは、乗り換えのために少し長めに歩く必要があるのだ。通る道は工事中で狭くなっている。ここ、ずっと工事していて、休職後初めてここ来たんですけど、前と何も変わってないです。というような話をした。

 

レンタルさんは、レンタルなんもしない人なので当然だがなんもしない。私が話しかけなければ話すこともない。ごくかんたんな受け答えはもちろん、してくれる。歩くときも、私のペースに合わせて、ついてくるように歩く。そういえば会社の先輩はみんな男性で、ヒールで歩きづらい私と一緒でもどんどん先に行ってしまったなと思い出す。

 

乗り換え先の路線に乗ったとき、リュックについている缶バッジをよく見せてもらった。ドット絵のレンタルさんのバッジが可愛かった。

 

そうしてついに会社の最寄駅へ到着する。駅の目の前に会社のビルがあるので、せっかくなのでその前まで行ってみることにした。

ここで働いてるんですよ、なんてちょっと自慢したくなるような綺麗なビルだ。

久しぶりにその姿を見上げて思ったのは、なんだ、こんなものか。ということだった。少しだけ、なつかしい、とも思った。

 

さて、目的を達成したので、ここでレンタルさんとの時間はおしまいだ。交通費(多め)を入れてきた小さな封筒を手渡して、ありがとうございました、お礼をしてお別れする。レンタルさんは次の依頼へと向かっていった。

 

来た道を一人で帰る。一緒に写真でも撮ってもらえばよかったかなとミーハーなことを少し思った。

ホームを歩いている間、よく泣きながら終電で帰っていたことを思い出したが、もはや他人事のような感じがした。辛かったこともちゃんと過去になっているんだと感じる。

 

帰り道はなんとなくぬけがらのようで、チケットをとっていたライブにも行かず帰って寝てしまった。

 

この日、レンタルさんに付き添ってもらってよかったと思うのは、一人のようで一人ではないところだった。
一人で行っていたら多分、音楽を大きな音で聴いてスマホにかじりついて、おばあさんにも気づかなかったと思う。乗り換え駅で降りられなかったかもしれないし、途中で帰ったかもしれない。

私が恐れているのは通勤ルートではなく、そこにいる人々の悪意や背負って歩いていた孤独とその記憶だったのだと悟った。
「なんもしない」ことは冷たいようにみえるかもしれないが、「なんもしない人」ひとり分の体温というものは確かに存在していて、そういうものへの感度を取り戻したような気がした。わたしも、おばあちゃんも、なんもしていなくてもそこにいる。これを読んでいるあなたも。そんな風に考えてみてもいいのではないか。という前向きな私である。

通勤ルートは心を殺すためのゲートのように思っていたが、なんもしない人と歩いた記憶で上書き、とまでは言わないが、一番上のレイヤーに保存されてしっかりと残った。

 

さまざまの個性的な依頼に対応しているレンタルさんにとっては特筆すべきこともない時間だったかもしれないし、これを読んでいる人も、なんてことのない時間じゃないか、と思ったかもしれない。けれども私にとってはきっと時々思い出すような不思議な一日になった。

そんな一日が今日も多くの人に訪れていることを、私は祈ることにする。