10/4の公開日と、10/9に2回鑑賞した。
(決して全ての映画を観ているわけではないが)私が今年観た映画の中では、暫定ベストである。
この映画を観て、感じたことや考えたことがあまりにも多かったのでブログに書くことにした。
ちなみに私はバットマンシリーズの映画を一本も観ていない。
ごめんなさい。
以下、ネタバレを多分に含みます。ご注意ください。
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・アーサーの笑い方
3種類くらいあったように思う。
一つ目は発作の笑い。
人から責められていると感じた時、緊張した時、不安を押し殺すように、眉間に皺を寄せて苦しそうに笑っている。
二つ目は作り笑い。
他人が笑っているとき、合わせて笑う。裏声でハハハ!と笑う。本心でないのでタイミングがずれておかしなときに笑ってしまうことも。
彼は会社やコメディクラブで飛び交う性的なジョークや差別的なジョークでこの笑い方をしている。別に面白いなんて思っていないのだ。彼自身には性別、障害、人種をネタにする考えはどうやらないようだ。
三つ目は、本当に面白くて、楽しいときの笑い。
差別的なジョークで笑わない彼にはなぜか、人が死ぬ話が面白いらしい。日記に書かれたジョーク「硬貨な死を望む」、マレー・フランクリンショーで披露した息子が轢き殺されたという話。
それが彼の本性、すなわち悪であることを示唆しているのではないだろうか。
・アーサーは「無敵の人」なのか?
Twitterなどで見かける多くの意見が、「これは無敵の人の誕生過程だ」という解釈。
私も1回目の鑑賞時には同じことを考えたが、2回目で考えが変わった。
いわゆる「無敵の人」は社会的に失うものがなくなったために倫理を捨て、自分を見捨てた社会へのルサンチマンを動機に犯罪に向かう者、として定義されていると思っているのだが、アーサーの場合は少し違っている気がする。
証券マンを射殺したのは完全な衝動だ。その事件の時点で彼は、職さえ失っているものの母との暮らしを営んでいたし、同じマンションの女性に関する妄想も解けていない。発作の笑いにイチャモンをつけられ、暴力を振るわれたときに身を守るためか怒りからか咄嗟に撃ってしまう。そこで思い留まれば3人も殺さなくてよかったはずだが、追いかけてまで最後の1人を至近距離で撃つ。
そして逃げ込んだトイレで彼は踊り、鏡に映ったもう一人の自分、あるいは本当の自分、“ジョーカー”を発見するのだ。
彼は母の診療記録を見に行った病院ではっきりと「スッキリした」と言っている。
しかし社会では富裕層への不満が募り、殺人ピエロを支持する風潮が生まれ始める。
更に母や自身の生い立ちの真実を知り、自分が社会から本当に見捨てられた存在であったことを知り、恋人の妄想も打ち砕かれる。
彼はこれを機に「無敵の人」の仮面を後付けで被り始めたのではないだろうか。
確かに彼が欲していたのは誰かから認められ、優しくされることだった。家族からも社会からも見捨てられた存在だと自覚していた。彼にとってそれは悲劇に思えたが、社会の流れが衝動的な殺人を正当化し始め、続いて怒りに任せて母や元同僚を殺すことにも無抵抗になり、攻撃と破壊によって人生を喜劇に昇華するに至る。
・アーサーの病理
彼は精神疾患を抱えている。かつて閉鎖病棟にいたことも語られる。しかし受けている治療はお粗末なもので、7種類も薬を出され、カウンセラーはまるで話を聞いていない。挙句、それらの福祉サービスも打ち切られてしまう。
彼が証券マンを撃ち殺したのは薬を飲まなくなってからだということに2回目の鑑賞で気づいた。彼の内なる攻撃衝動は、治療によりある程度抑えられていたのではないか、とも考えられるだろう。
また、健忘の症状が観客のミスリードを誘う。閉鎖病棟にいた意味もおぼろげで、救急車の中で母と最後に話したのは?と問われても「さあ……」、すぐには思い出せない。
それゆえ母とその恋人から虐待されていたことも忘却していたのである。彼が受けた心の傷や衝動の大きさは察するに余りある。
これらの悲惨な状況からアーサーに感情移入してしまった人も多いだろう。
もう一つ気になったのは、日記を左手で書いていたことだ。彼は別に左利きではなかったはずだ。タバコも、拳銃も右手で持っていたと思う。これについてはもう少し意味を考えてみたい。
・階段
アーサーが階段を下りるシーンは社会からのドロップアウトに重なる。
上司に楽器屋の看板のことで叱咤されるとき、会社をクビになるとき。
しかしながらその堕落の階段の先が開放的な光に溢れていることはなんとも皮肉である。
ただし母の診療記録を奪って読むシーンでは闇の中にいる。
そして自宅から街へ出ていく長い階段を、光を背に踊りながら下りていくシーンで彼は完全にジョーカーへと変貌する。
・対比の演出
カウンセリング帰りのバスの車窓での憂鬱そうな顔と、逮捕されたパトカーの窓で燃えさかるゴッサムシティを見つめる笑顔。
序盤で看板を盗られ不良少年を追いかけるピエロのアーサーと、終盤で警官二人に追われるジョーカー。
社会的弱者のアーサーと力を得て強者となったジョーカーとが対比されている演出は面白く、スリリングだった。
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1回目の鑑賞ではジョーカーへの共感、ジョーカーが現れればいい、ジョーカーになりたい、そんな怒涛の感情と、自分は人間として善く在りたい、という倫理との間で引き裂かれるような気持ちになった。
2回目の鑑賞では、ジョーカーに多少の同情はするものの、ジョーカーは何もかも間違ってしまった人だったのだ、と思った。何もかもを間違って、それをアイデンティティとするしかなくなってしまった人。
彼が悪のカリスマとなったのは、共鳴した人々に車から引き摺り出され祭り上げられたように、衝動が衝動を呼び、求められたからだ。
だからきっと、いわゆる「無敵の人」は、そんなに簡単に生まれるものではない。
全てを失い、社会に恨みを抱く者が無敵となる最後の決め手はやはり、本人の衝動と、社会の要求だ。
「無敵の人」によると思われる犯行が起こるたびに、その存在の発生を危惧する声と同時に、ダークヒーローとして要求さえする雰囲気も高まっているように感じるのは気のせいだろうか。