my lips are sealed

tamavskyのB面

本当の神様が同じ顔で僕の窓辺に現れても

もう火曜夜の時点で視界に変なものが見えていて、これは来るぞ、と思いトラベルミンカロナール(イブを切らした)を飲んだ。現在ばっちり雨が降っている。時代が時代なら雨を予知できる異能者として有り難がられ、何不自由ない生活をしていたかもしれない。残念ながら現実は21世紀の非正規労働者だ。

 

今日は私は在宅勤務で、夜勤明けのAちゃんも早めに帰ってきたから、お肉を買ってきてもらいちゃんとしたご飯を食べた。とんかつと、玉ねぎのソテー(チーズのせ)。冷蔵庫に残っていた舞茸と収穫しすぎた豆苗もソテーにした。というかほぼほぼ作ってもらったのだが。

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いい加減中濃ソースを買おうと思った。まあまあ使うし、何かで代用するのが難しい。

味ぽんも実は、最近ようやく買った。買うまでは醤油・お酢・みりん・レモン汁を配合して自力で作っていた。よく考えたら、味ぽんじゃなくてぽん酢を買えばよかった。

調味料はやっぱり大手メーカーのを使うのがいい気がする。なんとなく食べ慣れた味になるのは気のせいか。しかし確かなことも一つ、そのメーカーのサイトに載っているレシピが確実に成功する。

 

明日朝早いからとAちゃんすぐ寝る。この人は完全にカレンダーの感覚を失っており、週末や休日前に限って「あした出社?」とか聞いてくる。休みじゃなかったら酒飲まないって(たいていは)。


明日はゴミの日、朝絶対起きられないので夜のうちに出そうと0時ごろから洗い物をしていたらスイッチが入ってしまい、洗面台と風呂も掃除した。

最近洗面台で小蝿を見かけるので出どころはどこだと思っていたら風呂の排水口だった。最近ガチで風呂に入っていなさすぎてわからなかった。いっぱいいたら流石に気分最悪かも、と思って蓋を開けたら2、3匹だったので、とはいえ間違いなくここだろうと特定できたので、ダブル安心して洗剤入りの熱湯を注いだ。熱湯は水道管によくないかもしれないと思ったが容赦なくいかせてもらう。

しかし小蝿だって懸命に生きているのになんで殺さにゃならんのだろう、と思いながら虫が飛ばなくなった風呂の床を磨く。もしこの家にゴキブリが出ても、私は多分殺す。逃したところで戻ってくる可能性が高いのだから多分殺すだろう。かわいそうだから会いたくない。

要らぬ殺生を防ぐため、水回りの排水口、ゴミ箱、玄関などきれいに保とうと思った。ゴミを出しにいった頃には1時過ぎ。


明日は午後にひとつ予定があるだけなので夜更かししてやろうと読書を開始した。

今村夏子『星の子』。ラストシーンに向かって胸が締め付けられて苦しかった。すごい。ここさあ、スピッツの「流れ星」を思い出さずにはいられない。インスピレーション受けていたりしないかな。

 

小学生の頃、"学童"(放課後児童クラブのことをそう呼んでいた)で最初に仲良くなった子の親がエホバの証人の信者だったのを思い出した。ん、創価学会かも? なんかお経的なものが書いてあるお守りを持っていて見せてくれた。いやでもそれは別の子? 確かにあの子は、エホバって言っていたと思う。"学童"で最初に仲良くなった子、2人いたんだけど、今思い出したことを考えるともしかしたら片方がエホバの証人、もう片方が創価学会の2世だったのかもしれない。

その子たちと私と3人組で仲良くしていたのは2年間くらいだと思うけれど、○○ちゃんちって変なの、みたいな話になったことはなかった。

思い返したら集会に行ったとかの話も普通に私にしてきていた。私は理解できなくて、でも私は当時から空気を読みすぎるところがあり、(うちは違うけど、よそはそういうものなのかも?)と一旦思い込み「へーそうなんだー」「たのしそう、いいなー」という回答をしていた気がする……。

あの子(たち?)とはその後別々の部活に入ったりして疎遠になってしまったけれど、信じているもののことで傷ついていないといいなと思う。けど、難しいかな。

 

星の子はすぐに読み終わってしまったので、植本一子『降伏の記録』のつづき。また読んでいて途中で涙が止まらなくなってしまった。深夜だし静かに、めそめそ、という感じで。彼女の日記は必ずどこかで感情が洪水を起こしてしまう。同じ悩みを持つ者として、苦しみが痛いくらいわかる。書いていないこともなんとなくわかってしまうような気がするほど、あまりにもこの人は私に似ている。わかったような気になってごめんなさい、と思いながらもこの人が気になってしまう。

いつか天然スタジオで写真を撮っていただきたい。なにか特別な日に。そしてファンレターなんか渡そう。

 

彼女と私の違いはこどもを産んだことで、それは、私にはいよいよわからない。私は自分の子が欲しいと思ったことが生まれてこのかた一度もない。もし過去に自分の子供の話をしていたとしたら、それはその場を収めるために他人に話を合わせていたときのことだ。よその小さい子供はかわいいと思えるようになったが、子猫や子犬をかわいがる気持ちと変わらない。「小さく、みなで守るべき、祝福されるべき存在」だけれど、そんな存在を自分で産むということには全く結びついてこない。

植本さんが母になってわかったことについて、私は一生わかることができないのか?と思うと、人間として大切なものが欠落している感覚も永遠に続くような気がする。とはいえそれはもうとっくにわかっていたはずで、別にもう落ち込まない。


だんだん焦燥が強くなってきてじっとしていられなくなった。もう4時か。一旦眠ろう。


そういえば、交際・同居している人のことを急にAちゃんと書き出したのは、彼氏とか恋人とか同居人とかパートナーとか、そういった呼称の全てが私の感情に当てはまらず、最も適切であろう呼称については当人の意見を聞いたこともなく、背負わせてしまうような感じもあり、兎にも角にも"気に入らない"のでもう名前(仮)にしてしまおうという意図です。

 

https://twitter.com/dj_anzan/status/1385158938354544649?s=21

 

これが本当に、本当にそう…… と思って、今後は外でもできるだけ名前で呼ぶし、友人にもそう呼ばせるようにしようと思った。