my lips are sealed

tamavskyのB面

麻の着物を買う

精神が健康でない。いや、またかよと自分でも思う。むしろ健康なことのほうが少ないような気さえする、なのになぜこれが健康でない=異常と感じるのだろうか。ニュートラルとダウナーを毎月のように繰り返しているし、何年もそれが続いている。慣れたようで慣れない。比較的健康だった輝かしい時期の記憶が「お前はこんなもんじゃない」と語りかけてきているのだろうか?

精神が昂っておかしくなっているときよりも沈んでいるときのほうが身体が辛いなあというのは最近特に強く感じる。石板を胸に乗せられているように苦しくて呼吸が浅い。目眩がひどくて起き上がれない日もある。吐き気と涙が突然こみ上げてくる。

ネットで見た情報なので確かではないが、精神を病んだ人が自殺を考えるとき、鬱の人は首吊りを選ぶことが多く、妄想や幻覚のある人は飛び降りが多いらしい。繰り返すがソースは不明、けれどもこれはそんなに間違っていないのではないかと思う。現在、ひたすらに情けないのだが、首を吊ることで頭がいっぱいになっている。ぶらさがっても壊れなさそうなしっかりとした建造物、木、欄干に無意識に目をやっている。目をやるだけ。実行する勇気なんてなし。昔使っていたポーチにしまわれた睡眠薬を酒で流し込めば1日くらい寝たきりになれるだろうが、職場やバンドの人に迷惑がかかるから、できないしやらない。

「死にたい」以外の感情をなんとか探して時間を潰しているみたいだ。汚い部屋の中から物を探すのに似ている。混沌の中に手を突っ込み、触って形を確かめてこれかなと引っ張りだす。違ったらまた手を突っ込み、探しての繰り返し。部屋を片付けないからいつまでもそうしている。部屋を片付ければいいのにどうしても片付けられない。引っ張り出したものに意外と熱中してしまったり。ほんとうの片付けの話に似てきた。昔からずっとそうしている気がするし、これからもそういうふうにしてやり過ごすのだろう。ただ、そろそろ片付けの上手い人の力を借りなくてはならない。疲れている。

 

末井昭『自殺』を読んだ。子供の頃にお母さんが隣の家の青年とダイナマイトで心中した著者(職業は編集者)による連載が元になっていて、自殺をテーマとしたエッセイやインタビューをまとめたもの。面白かった。interestingでも勿論あるのだけれど、かなりfunny寄りの面白さだった。

この本でも坂口恭平さんの本でも、自殺を思いとどまらせる言葉が、とにかく今日は寝ましょう眠れれば大丈夫みたいな、問題の先延ばしなことに気づいて、可笑しくなった。そんなこと知っていた、私はそうやってずっと繰り越してきた。今日もこのブログを書いたら寝る。朝が来て出勤の時間になって流れるように仕事を始めて、終わったらどうせまた暗い気持ちになっている。でも死ななかっただけマシなのだ。

連載をまとめただけあって読み応えがあった。人間はすごく弱いですよということがずっと書いてある。結局弱さを弱さのままにしておけないから人間はずっと辛い、情けない。情けないのが面白い。自分の情けなさを面白くしたい。

こだま『いまだ、おしまいの地』も読了。暗いんだか明るいんだかわからない人。暗さを面白さにできる人はすごい。それができるようになれば、わたしももう少し生きやすくなれるかもしれない。

 

5月24日は山田花子の命日で、あまり考えないようにしていたがそれを嘲笑うようにタイムラインにその話が流れてきた。しかも、あの大槻ケンヂの辛辣な寄稿と共に。オーケンの冷静さは本当に恐ろしい。私も本当はものすごいナルシストで勝手に傷つけられたと被害妄想を膨らませるところがある。彼のいう「青二才」的精神が巣食っている。自覚もしているけど、多分それどころではないくらい自意識過剰でどうしようもない。それと同時に、そちら側へ行けなかった・行ってはならない・行きたくないのどれなのかわからないけど、現実問題「いかないですんだ」ので、冷笑したっていいような気もする。けれども冷笑すると自分の中の青二才がまた被害妄想を膨らませていく。自分が二つあって傷つけ合っていて、嫌な感じだ。そうやって引き裂かれるような気持ちになるから、あの人のことはもう考えたくないのに、通勤する道にあの人が入院していた病院がある。

結論としては教祖様ごっこをやめたオーケンでよかったと思っている。特撮のニューアルバム、聴いた? ミステリーナイトっていう曲が本当にめちゃめちゃ面白くて電車で聴きながら笑ってしまったから聴いてほしい。

 

ふと、最近読んだ本の装丁がほとんど鈴木成一デザイン室のものであることに気づいた。エディトリアルデザインは本当に夢のまた夢みたいな仕事で、羨ましい。

最近の本はみな装丁がきれいだなと思う。きれいな本はつい手にとってしまうし、そういうもので本屋や家の棚が満たされるのは気持ちが良い。けれども、外側にそぐわない中身のものにはがっかりする。Aちゃんが少し前に、小説の顔をしたデザインブックが本屋に多すぎると呟いていたのを思い出す。文字のデザインブック、と言っていた気もするので、表紙ばかりの話ではないと思うが。デザインブック、よく売れているのだろうと思う。デザイナーズドラッグ、デザイナーベビー。デザインが嫌な使われ方をする場面も興味深い。何にだってよくない部分はあるし、よい部分が別の何かを攻撃してしまうことも、ままある。

 

私は少し前までデザインを学びたい、と思っていた。理論なのに表現でもある不思議な分野。そういう仕事にも人並み以上に憧れがあって、専門学校の夜間部への進学も考えていた。しかしながら現実問題資金を稼ぐのが難しく(学費の問題だけではない、課題がものすごいので普通に働きながらではとても無理で、生活費の分のお金も必要になる)一旦は諦めることにした。

去年の後半は引越しをしたい一心で文字通り汗水垂らして働いた。とにかく実家と地元を出たい気持ちでがむしゃらだった。昼に仕事をして夜勤をする。夜勤明けでスタジオに入って、さらにそのまま夜勤をする生活。とにかく何かから逃げなければという気持ちでいれば必死になれるのかもしれない。今は家や街の居心地が良いから、そんなに、本気になることができない。

とりあえず今年は文章に向き合おう。校正の通信講座のお金はなんとか捻出した。来月には教材が届くらしい。8ヶ月間が今から楽しみで仕方ない。勉強しながら業界研究もする。出版関係の仕事につけたら本当に嬉しいだろうなと思う。その嬉しさを感じてみたい。別に、どんな仕事も長く続けることが目標ではない。SEのときみたいに2年と少しで辞めるかもしれない。ただ自分の好きなことを仕事にするのがどんなに幸せなのことなのかが知りたい。私はお金を得るために生きているのではなく、知りたいことを知るために生きている。そういうふうに考えられるまでに結構時間がかかってしまった。

だからデザインに関しても完全に諦めたわけではない。もしもお金ができたら、また突然仕事を辞めて学校に行きだすかもしれない。

 

先日母からLINEが来て、100分de名著でやっていた三島由紀夫金閣寺』でわからないところがあるとのこと。番組では作家論的な解説がメインだったから三島の考えはわかったのだが肝心の主人公の心情がわからないままの部分があったらしい。私は読んだのが高校生の頃だから内容をほとんど忘れており、今週末図書館に借りに行くことにする。ちなみに次の週はレイ・ブラッドベリ華氏451』らしい。燃やしまくりだ。

 

実家にいたときも今の家にいるときも、なぜか去年4月まで住んでいた高円寺の家に帰りたいと考えることがある。狭くて汚くて(自分が整頓しないせいだが)、ベッドとぬいぐるみで埋まった部屋はやたらと居心地がよかった。実家には自分専用の部屋がなかったので(妹と同じ部屋だった)そこは人生で初めてたった一人で自由に過ごせる場所だった。

 

先日、いつのまにか失効してしまっていた運転免許の更新の手続きに行った。ペーパードライバー、晴れてゴールド免許だ。写真撮影は座ったらすぐにシャッターを切られるから、薄いピンク色の髪の、毛先が内巻きになったまま広がった状態で撮られた写真はタコの魔人のようだった。仏頂面のタコ魔人ゴールド免許をこの先5年使う。憂鬱だ。

 

とりあえず本を読んでいるときと、文章を書いているときは少し楽になれる。神とは言葉なのかもしれない。

ああそうか、教会へ行ってみたらいいかもしれない。近所にプロテスタント系の教会があり日曜礼拝もやっている。大学がプロテスタント系で、キリスト教学は必修、毎日1限と2限の間に自由参加の礼拝があった。落ち込んでいるときや悩み事があるときは早起きして礼拝へ行った。聖書から得られる教訓のお話を聞き、賛美歌を歌えば(ピアノ教室でのソルフェージュの時間を思い出して楽しいのだ)、いつも気持ちが少し軽くなった。教会に行こう。教会に行くまでは頑張ろう。

こういう、何か楽しみを先に置いておき、それまでは生きようと思うこと、またその楽しみのことを私は勝手に「麻の着物」と呼んでいる。