my lips are sealed

tamavskyのB面

あこがれ

7/11〜14 ごちゃまぜ

一匹の蝿が私のコーヒーカップを休憩所にしている。
ぎょっとしてカップを傾けると蝿は飛び去った。中身が空であったことに安心した。
昼休みまであと45分、紙巻たばこの吸えない、Wi-Fiの恐ろしく遅い、駅前のドトールに閉じ込められている。外へ出たところで、たった1時間の猶予ののち5時間の労働が待っている。その憂鬱を思うとどちらかといえば蝿のほうに憧れを覚える。

 

家のWiFiがない問題が、ようやく解決しようとしている。先の休日、お金がないので美容室を諦め、代わりに同居人Aの旧居近くに住む友達の家(に、引っ越しの際に持ち出しきれなかった荷物が残っている)まで赴いた。殺人的な湿度と炎天下の中をえっちらおっちら、WiFiルーターだの延長タップだのを運んだのに、肝心の回線の契約が切れているので(これもAが滞納に滞納を重ねたからに違いない)、インターネット開通ならず。
それで結局UQの、コンセントプラグに刺してすぐ使えるルーターを買うことになった。

最近、日々の記録を適当にしかつけないでいたら、記憶が非常に曖昧になってしまった。あの会話をしたのが昨日だったか一昨日だったか、あれを食べたのは一昨日だったかもっと前だったか、そういった些細なことが思い出せない。ただとにかくタバコがどんどん減っていくので、それで日々の経過を感じている。ちょっと吸いすぎている。

校正の通信講座の7月分を11日に投函した。良いペースだ。勉強は裏切らないと言い聞かせて、嫌なことがあったときこそ取り組むようにしている。

昨日は、20時頃に帰ってきて、夜勤に備え仮眠をしているAの横で寝ていたらそのまま朝6時まで目が覚めなかった。つまり、躁鬱の薬を飲み忘れた。ついでに夕食をとるのも忘れた。18時間近く食事をとっていないので、その状態で薬を飲むのは怖く、やめておいた。

文フリで買ったものについて感想を残しておこうと思い、二回に渡り作品を購入したサークルについて書いたものを朝アップロードした。製作者からお礼のリプライが来た。小さなつながりをいつまでも大切にしたい。


とある友人が私のバンドの音楽をInstagramのストーリーでシェアしてくれた。心配してくれたの嬉しかったです、というお礼が添えられていた。というのも、その友人(Fとする)は数日前まで精神的に辛そうな状態にあった。部屋の中でものを燃やしたり突発的に夜の富士山に向かったりしていて、「F、大丈夫かな」とツイートだけしておいたのだった。ふさぎ込むというよりは攻撃的であって、それがうまく発散できないような感じを受けたので、寄り添って何かの助けになることは難しく、危険だと思った。だから、遠くから「大丈夫かな」とだけ言った。とても無責任だと思ったが、それが自分のできる限界だと思った。思い込もうとした。
結果的にはFはただ夜の森の空気を浴びて無事に東京へ帰ってきた。私が数週間前に檜原村で吸い込んだような、澄んでいて湿度の高い、人のいないところの空気をチャージしてきたのだろう。あれは効く。下手な抗不安薬なんかより、ずっと安全に強力に精神を落ち着かせてくれる。
その流れで今度お茶をしようという話になった。実際に顔を合わせるのは何年ぶりだろう? そもそも人とお茶をするという行為自体すら久しぶりだ。人と会う予定があると、なんとなく閉塞的な気持ちに穴が空いたようで心が軽い。もっと気軽に、他人を誘えるようになれればよいのだけれど。

薬を飲み忘れたせいか、仕事中に涙が出る。今の仕事は面白いが、ときに目にする情報の多さに混乱する。悲しいニュースに耐えきれないことがある。自分でどうこうできる問題ではない。この世界が悲しみに溢れているのが悪いのだ。

 

また図書館で本を借りたが、カバンに入れてくるのを忘れてしまって電車で読むことができない。借りたのは、群ようこ『この先には、何がある?』、柴崎友香寝ても覚めても』、あと一冊がなんだったか思い出せない。適当に綺麗な表紙の外国文学を選んだ気がする。そういえば和室の棚に、買おうと思いながら金欠で諦めていた岸政彦『リリアン』があった。Aのものだろう。読み終わっていたら貸してもらおう。

 

他人の日記や、随筆を読むのは楽しい。学生時代は本を読むぞー、と手に取るのは大抵小説であったが、それがいつのまにかエッセイばかり手に取るようになった。日本文学専攻に在籍していたのだが、近現代のエッセイは講義の研究対象として扱うことも少なかった気がする。一方で中世の随筆は面白い先生がいて、2年間、門外漢なりに楽しく講義を受けていた。徒然草がいかに革新的な文学作品であったか、端々にちりばめられたオマージュ(から見える兼好の教養の高さ)、などなど。あっ、これは特にオチのない思い出話。 

作家先生でなくとも友人や知人の日記は知っている範囲で全て読んでいる。ブックマークまでして読んでいるので注意したほうがいい。余程つまらなければ別だが。こんなことを書いて、私に読まれたくないことを書かないようになられたらどうしよう。先日サークル時代の2個上の先輩がnoteを始めて、どんどん投稿されているので、貪るように読んでいる。昔その先輩が好きだった(そんで無言のうちに振られた!)。この先輩がハッキリときらいだ、とか苦手だ、とかいうことを、私は悉く好きであったり、やってしまっていたりする。だから私はこの人から好かれないし、認められないんだということが、よくわかる。ずっとわかっている気がする。それでよい。先輩が生きているのをこれからも確認できるだけでなんだか喜ばしいことのように思う。

そういう、友情も恋愛ももはや発生していないが、ただこの人が無事にすこやかであるのが嬉しいという気持ちを抱く人が何人かいる。なんだろう。憧れ?

Aはもう私に対しては完全に、この感情がなくなっているのだろう、と思うことが増えた。

TBSのアナウンサーに、「憧れ」さんという名前の人がいる。読み方はそのまま、あこがれ。なんていい名前だろう。朝4時台のニュース、憧れさんは美しい声でおはようございますと告げる。けれども実は、仕事で使う番組表やTV録画機では、午前4時は前日の深夜の扱いなのである。

話を戻す。知っている人の日記は、書いている人と私の共通の知り合いも登場するのが楽しい。一人の日記を読んでいるのにそのほかの何人かの人生を少しだけ覗くことができてお得な感じがする。もっとみんな日記を書いたらいいと思うけれど、それはそれで、知りたくないことまでたくさん知ってしまうから嫌なものだろうか。