my lips are sealed

tamavskyのB面

デンジ…私の夢はね

書くことによって救われている。書くことによって、自分を保っている。

最近エッセイをよく読んでいるのだが、多くの人が異口同音にそう書いていた。ぱっと思い出せるのは植本一子さん、岸政彦さん、こだまさん。おそらく他にもたくさん。

私も、このブログをしっかりめに更新している最近は特にそれを強く思う。言葉にすることでモヤモヤとした気持ちが整理されるし、醜い感情や苦しい記憶も、いちど離れて俯瞰することで自分にしか積み重ねられない地層のように見える。

そして小林エリコさんが書いていたように、一部でも同じ体験をした人が読んでくれて気持ちを共有してくれていれば、それは私は一人ではないということにもなる。自分の体験は全然、普遍的でありふれたものだとは思うけれど、もともと自分が思い描いていたのとは違ったし、思い描くようなことが叶わないというのはどこかでわかっていた。それでも大丈夫だと、書くこと、読んでもらうこと、他人の文章を読むことでなんとか心を保っていられる。

数年前、心療内科で「初診の患者さんにお配りしています」と渡されたプリントにも気持ちを言葉にすることはとても大切だと書いてあった。言葉にして誰かに伝えるだけでもストレスを癒すことができるとのことだ。誰にも言えない場合はカウンセリングを受けましょうとあった。

今もカウンセリングを受けたい気持ちは強い。受けていないのは金銭的に余裕がないからだ。鬱やパニックの薬と診療には保険が効くのに、カウンセリングには効かない。安くても50分で6000円はかかる。それを月に2回もやるのは相当厳しい。

仕方ないので、今はこうやって、誰が読んでいるかもわからないブログに日々起こったことや思ったことを書き連ねている。最近はアクセス数が日に5〜10程度あり、嬉しいような恥ずかしいような気持ちだ。

 

誰にも読まれない、手書きの日記も昔はよくつけていた。

最初に日記の習慣ができたのは、小学校高学年の頃だと思う。ADHDの特性で忘れ物や先延ばし癖がひどく常に叱責に怯える日々の中で、突然部活の顧問がポケットサイズのスケジュール帳をくれた。数百円で買えるようなものだと思うが、そんなものを学校の先生に個人的にもらうなんて相当問題視されているのかと落ち込んだ。これも特性だが飽きっぽいので予定を書き込むのも疎かになり、あまりそちらを改善するのには役に立たなかった。

代わりに、その手帳は希死念慮を書き込む闇の日記帳になってしまった。当時同級生からいじめというか嫌がらせを受けていたこともあるし、あとは部活でも人間関係がこじれたり顧問がヒステリックだったり、家にいても大小さまざまな失敗により怒鳴られたりと本当に毎日惨めな気分だった。休み時間は教室の後ろに貼られた書道の作品の名前の欄を眺めながら、頭の中で「嫌いランキング」を作っていた。教師含め教室にいる人間のほとんどが嫌いで見下していた。自分も相当くだらない人間だったとは思うが(そもそも忘れ物多すぎ、宿題やらなさすぎ、整理整頓できなさすぎの迷惑な人が大したコミュニケーション能力も華やかな容姿も持たないのに集団生活の中で評価されるわけがない、その当て付けだ)。部活が終わって帰宅し、母親と保育園児の妹が帰ってくるまでの一人の時間だけはリラックスでき、毎日自室でさめざめと泣いていた。泣きながら助けてくれ、早く死にたい、家にも学校にもいたくない、○○がいなければいいのに、遠くの学校に引っ越したい、早く中学に上がってこのクラスや部活と離れたいなどと書き連ねていた。こどもの人権ホットラインみたいなところに電話をすればよかったのに、それが思いつかなかったのは今でも謎だ。その手帳はいつのまにか失くしてしまった。未だに小学校学校4〜6年の記憶がところどころ欠落している。その頃から10年以上ずっと薄らとした死にたい気持ちが消えない。

その次に日記をつけていたのは中学生の頃、部活がかなりハードで楽しくなくなってきた。そのストレスを解消するために書いていた。といっても小学生の頃の呪詛や遺書のようなノートにはならず、当時ハマっていたバンドの良さについて延々と書いていた。いわゆるロキノン系のバンドの話をできる人が周りに全くおらず、インターネットも家族共用のパソコンでしかできなかったので、唯一なんでも聞いてくれる友達に布教活動をしまくり、その子とだけはよく音楽の話をしていたが、それでは足りず無印のノートに相手をしてもらっていた。「毎日日記を書くぞ」と思っても継続できた試しがないので書きたいときにだけ書くことにしていたら、思いの外続いた。

高校生になっても同じように書きたいときだけ書くノートがあった。その頃には携帯を持っていたのでmixiTwitterで趣味の合う友達を見つけることはできたし、ある程度の愚痴もそちらでこぼすことができた。それでも受験勉強と時期を同じくして発生した家庭内の不和によるストレスで、ノートのお世話になることは少なくなかった。Twitterのアカウントは家族、親族に知られていたのであまり直接的に書けなかったのだ。

 

そういえば大学時代はほとんど日記を書かなかった。代わりに音楽を作ることに熱中していた。そもそもストレスになる要因も少なかった。辛いことよりも楽しいことのほうが多かったと思う。お酒も覚えた。

何より男を覚えた。という書き方をすると最悪な感じだが、まあ最悪だ。思い返せば大学2〜4年の間全く恋人やそれに準ずる存在が途切れなかった。自分の容姿のレベルから言えばラッキーな方だと思う。これの何がいいんだか。彼らは居心地の悪い家の外に存在し、好きなときにいくらでも話を聞いてくれるので、うだうだと日記を書くよりも簡単に気分が晴れたのだろう。ただ、彼らに私の痛みが理解できないことも多かった。そうなるとやはり日記だ。頻度が少ないので、紙のノートではなくブログに、思い出したように書いた。

振り返ってみると、(全く自覚していなかったが)私は孤独に耐えかねたとき、ざわつく胸を落ち着かせるように自然とノートに、キーボードに向かってきたらしい。友人や恋人との会話、SNS、そういったツールを得てもなお癒せない孤独感があり、そのときにたどり着くのはなぜか、ただただ自分の話だけを好きなように綴る場所だ。

私はずっと誰かに話を聞いてほしかったのだ。

 

チェンソーマン、最近になって全巻読んだのだが、ポチタが11巻の終盤で言う言葉が大好きだ。「デンジ…私の夢はね」のところだ。ぶっ飛んだ話でぶっ飛んだ人や悪魔ばかり出てくるので共感できる部分なんかほとんどないし、ただただストーリーを追うことに夢中になって読んでいたのに、ポチタのその言葉だけが急に刺さったようになって、我に返りながら涙が止まらなくなってしまった。

私は誰かの話を聞いてあげられているのだろうか。

 

それはそれとして、ポチタのビッグサイズぬいぐるみが欲しくてたまらない。ポチタ、大好きだ。ポチタを抱きしめて眠りたい。