my lips are sealed

tamavskyのB面

終わりはない

6/10 木

歯医者。先週は主訴?である前歯のクリーニング、虫歯のチェック、親知らずが生えかけているためレントゲン撮影。今回は全体のクリーニング。しばらく歯医者に行っていなかったし歯石がかなりできていたようで歯と歯の間がスカスカになった。血がたくさん出たしまあまあ痛かったがすっきり。来週奥歯の虫歯を治療して終わりらしい。

適当に選んだ駅前の歯科医院だが、患者の歯についての「感想」めいたこと(例えば、うわーこれはひどいですねー、とか、歯並び直さなかったんですね、とか)を言ってこないし、淡々と必用最低限の説明だけしてくれるので、いいところを選んだと思う。親知らずもすぐに抜きましょうという話にはならなかった。

午後はカフェで仕事。2杯目の飲み物をデカフェにしたところ心臓がばくばくすることなく家に帰れた。

 

6/11 金

午前中だけ家で仕事(起きられないので)。Qoo10の荷物が届く。ビタミンC美容液とツヤ感のある下地といいにおいのするトリートメント。

午後からカフェで仕事。いつも2杯ほど何か飲むけれど、仕事がわりと忙しくアイスティー1杯で済む。疲れ果てなにも買わず帰る。

作業をしているカフェはショッピングモールに入っているのですぐ隣が無印良品で、そのBGMが帰ってからも頭の中をぐるぐるしていた。無印良品で働いている人は毎日こんな感じなのだろうか。覚えてしまいそうだ。

月曜日、パニックになりかけたのはやはりカフェインの取りすぎもよくなかったようだ。飲み物に気をつければなんとか仕事ができる。

帰宅後、身体のほてりと頭痛でぐったりしてしまう。土日ともスタジオ練習の予定で、あまり気が休まらないことを思い憂鬱になる。ごはんを作らなければと思いながら音楽をききつつゴロゴロ。Aちゃんからこれから帰る、帰ったら電話する予定があると連絡。ごはん作らなくてよかった。存分にゴロゴロして、昨日作っておいたポテトサラダとお漬物だけ食べる。らっきょう酢で漬けたきゅうりがとても美味しい。あと2本残っているきゅうりは全部これにしようと心に決める。らっきょう酢、よくわからないまま買ったが、お酢と砂糖を入れる料理がこれ一本で済むので地味に重宝しそうだ。

久しぶりにお湯を張って温まる。KUNDALのトリートメントを使ってみた。香りはなんとなくアンバーバニラにしてみたのだけれど、少しココナッツのような感じもする甘い香りで大満足。乾かしても香りが残っている。ビタミンC美容液も早速使う。使い方や効果を調べるまでビタミンCが吸収されるときに温かくなったり、ピリピリしたりするのを知らなかった。本当に美容については知らないことばかりだ。2時ごろになっても部屋に篭って電話しているので、ついでに脱毛器も使ってみた。眩しい!手足とうなじをやるだけで900回近く使った。手足が太めの人、長い人はもっと大変だ。自分は足なんかは太めだがとりあえず短くて、得した。

今週はあまり読書が進まなかった。短いのを2冊。文フリで買った橋本亮二『うもれる日々』は知っている名前がちらほら出てきた。本のタイトルだけでも頭に残していて時折思い出すの、わかるなあ。私は『そこにすわろうとおもう』というタイトルがすごいと思う。写真集だけど。

日曜には図書館に返しにいかなければならない岡崎京子『ぼくたちは何だか全て忘れてしまうね』はあと少しで読み終わる。短編集の形だけれど、詩集のようにも読めるし、とりとめのない思考や記憶やお伽話のような一冊。退廃的でやさぐれた、生き急いでいるような女の子たちがたくさん出てきて、漫画と地続きの雰囲気。アンナ・カヴァンアサイラム・ピース』は手付かず。延長させてもらうか、明日明後日のうちに読めたら読む。‪

電話のたびに嫌な気持ちになるの、辞めたい。自分の中の境界性人格障害の芽みたいなものを必死で抑え込み摘み取らされているような気分。勝手に見捨てられたような気分になり、そんな気分にさせてきた相手のことは地獄の果てまで追い詰めてやりたくなる。馬鹿馬鹿しい。普段はもっと冷静で論理的でいられるのに、こういう状況におかれると突然、思考の箍が外れて0か100でしか捉えられなくなる。

 

6/13 日

なんとか岡崎京子の本は読み終わり返却。アサイラム・ピースは延長。スタジオへ行く電車の中で読み始めるが、理不尽な迫害(の妄想、とも捉えられる)の描写が延々と続きかなり厳しい気持ちに。著者アンナ・カヴァンも長年精神的に不安定な状態であったらしい。短編集なのでどんどん読めてしまうが、不安と緊張でひたすらに苦しい。映画『もう終わりにしよう。』を観ていたときのよう。そういえばあの映画、小説が原作らしいのでそれも読んでみたい。後半のバレエのシーンはどんな文章から着想を得たのだろうか?

感情が周りの人や映画や本に引っ張られやすい。子供の頃から、晩ご飯のときに流れているテレビの、NHKのニュース特集(とくに社会的弱者の厳しい現状など)をいつも涙をこらえながら見ていた。こんなふうに気持ちが引っ張られてしまうので悲しい作品を見ないようにしているという友人がいるが、私はむしろ進んで他人の心の闇に浸ろうとしてしまう。どう考え方が違ってそうなってしまうのだろう。暗い気持ち、嫌な気持ちになることはもちろんストレスなのだが、昔から気分が沈むことが多いので底抜けに明るい作品やハッピーエンドよりもそちらのほうがリアリティをもって受け入れられるというのはある。私のような人間にとっては孤独、不安、苦しみこそが現実なのだから、その苦しみを丁寧に描くことに対して強い敬意を持って作品を味わうことができる。現実が苦しみに満ち溢れているのだからフィクションくらいはハッピーであってほしい(故に暗い作品が苦手)という意見もSNSで見かけたことがあるが、それはフィクションを軽視しすぎていると思うので気に入らない。フィクションくらいは、の意味がわからない。もちろん明るくハッピーなだけの作品もクオリティの高い、感動させられるものがたくさんあるけれど、それだけを消費する人生の何が楽しいのだろうか。何十年も生きるならできるだけ多くの作品に触れて色々な気持ちを知りたい。

ということで私はこの本をどんなに辛くとも読み続ける。読み終わったら長編『氷』も読んでみたい。

 

今日はスタジオ練習の前に原宿はデザインフェスタギャラリーへ。友人の展示を見てきた。油彩画と陶芸の二人展だ。絵の上に和紙を被せ、上から塗ったメディウムごと剥がしたような作品がありそれがよかった。剥がすだけでなく焼いたものもあり、そちらもエネルギーが強い。ここ1、2年ほど自分の中で「火」というものに惹かれる気持ちがあるのだが、その痕跡を強く残した絵画はショッキングで美しかった。陶芸のほうは、磁器の壺を覗いてみると中まで絵付けがしてあって驚き。偶然焼く前のものを人が落としてしまい、斜めにひしゃげた形のものを面白がってそのまま焼き上げていた。作者とはもう5年の付き合いになるが実は陶芸作品の展示を見たのは初めてで、自分の知っている彼と陶芸がようやく結びついたような気がした。一見奇妙でも、もしくは小綺麗でも、よくよく観察すれば間違いなくこの人のものだとわかる。やっぱり、作ったものにはその人が宿っている。

 

いつもそうだが今日は特に、人の話が聞けない。何を言っているかわからなくなって途中から他のことを考えてしまう。このまま仕事に行くのが心配だ。