my lips are sealed

tamavskyのB面

感想を書くのにも時間がかかる

※本の感想を書こうとして自分の話ばかりするいつもの日記です

 

植本一子さんの新刊『愛は時間がかかる』、読み終えた。

2年前くらいに『かなわない』に出会って、むさぼるように彼女の日記やエッセイを読んできた。写真集も買った。写真展にも足を運んで、そこで一度だけ、ご本人と少しだけ言葉を交わしたことがある。「本にサインが欲しいんですけど、もう全部持っているので、写真集をもう一冊買いました」と言って(本当に思い出して恥ずかしくなるくらい気持ち悪い話し方になってしまって、ちょうど一年くらい経った今でもなんだったんだあれは、と脳内反省会が始まってしまう)、サインをしていただいた。

私がここまで彼女の文章から目が離せないのは、私も似たような問題を抱えている、と感じていたからだ。家族やパートナーとの関係、過去の出来事が原因の認知の歪みなど、心当たりのあることが多く、だからこそ彼女が日記の中でどのように感じ、どのように対処していったのかに非常に興味があったし、こういったことで困っているのは私だけではないとどこか安心する気持ちもあったと思う(ということはもしかしたらこのブログにも書いたことがあるかもしれない)。

今回の著書はEMDRというトラウマ治療の記録がメインの内容ということで、発売前から、というか植本さんのニュースレターで言及されていたときから非常に気になっていた。

これまでも植本さんの著書を読みながら、涙が止まらなくなってしまうことが何度もあった。それは彼女に感情移入したからというよりは、私が抱えている似たような問題や記憶を思い出してしまい、その辛さに耐えきれず涙が出てくるのだった。だから私は彼女の著書はできるだけ家に一人でいられるタイミングで読むようにしてきた。今日も同居人が泊まりの仕事で不在にしているので、夕食後に熱いお茶を淹れて飲みながら読むことにした。

本当はAmazonで本を買いたくないのだけれど、日中外出の予定がない中でもできるだけ早く手に取りたかったので結局Amazonで買ってしまった。信じられないほどの簡易梱包で、そのせいなのか、あるいは梱包される前からなのか、カバーの端が少し皺になってしまっていて少し怒りを覚える。私はAmazonの倉庫でバイトをしたことがあって、ピッキングから梱包までに本がどのように扱われたのかは容易く想像できる。本を最低限大切に扱ってもらえるだけでも、本屋さんで買う価値はあるな、と思った。でもその後、読むのに夢中になっていたらお茶を飲んでいたカップの中にスピンを二度も水没させたので、私も別に、ぜんぜん大切にできてないわ〜と反省した。

私は文章を映像に再構成しながら読むタイプなので、辛くて蓋をしてきた記憶を思い出していく描写を読んでいると、他人の文章を読んでいるのに自分の脳が勝手に動き出して、自分の記憶を開陳してしまう。それで自分の辛い記憶をいくつも思い出してしまい、涙が出るから、せっかくなのでスッキリするだろうと思って大声で泣いた。大人になってからのほうが大声で泣いている気がする。それは一人になれる時間が増えたからだ。家族と同じ家に住んでいると、本当に一人の時間がなかった。小学生の頃、同級生からの嫌がらせがひどかったとき、部活から帰ってきてから母親が家に帰ってくるまでの1、2時間だけは一人で泣くことができた。その一人になれる時間は本当に心が安らいだ。もう家に誰も帰って来ず、朝も来ず、この時間が一生続けばいいのにと思っていた。

治療の中で、ある人への負の感情や記憶がほどけてしまうことに困惑しているのがリアルだった。私自身、同じ関係性の人物との折り合いの悪さに認知の歪みや精神的不安定の原因があると踏んでいると同時に「そんなに簡単にその人のことを許せるわけがない」という強い思いがある。

以前カウンセリングに通っていた時、私はまずその人に対して正しく「怒る」必要があったので、カウンセラーさんは「それっておかしいよね」「そんなひどいことをされたの?」「すごく傷付いたよね」と、私の悲しみや怒りを引き出してくれた。でも私が「これが辛かった、嫌だったというのを本人にぶつけたい」と言い出したら、それはあなたは一旦はスッキリするかもしれないが、そう簡単に解決するとは思えない。今の段階では関係性を壊しかねないのでは、として止められた。私はもはや怒りに取り憑かれてその人との関係性を自ら進んで壊そうとしていたので、それの何がいけないのか、と思ったが、人との関係性を壊すということは、私自身にもストレスがかかることだと諭されて、確かにそうかもしれないと納得して、その話はやめたし、アクションを起こすことはしなかった。

結局EMDRにはとても興味を持ったけれど、精神的にも、金銭的にもかなり負担が大きいので、すぐに取り入れることは難しい気がする。年間3万人が自殺し、それよりももっと多くの人が精神的な問題に苦しんでいるだろう国で、心理治療に保険が効かないのが信じられない。

 

ところで、『愛は時間がかかる』というタイトルは、読み終わってから「こういうことか」「こういう意味もあったのか」と思えて素敵だなと感じた。誰から誰へ届くのに時間がかかったのか、誰と誰との間で意味をなすことに時間がかかったのか。読む前は愛する側の目線で「時間がかかる」と言っているのかとばかり思っていたのだが、愛される側の言葉でもあったのだ。「自分は愛されていたのだ」と、半信半疑でも思えることはどんなに幸福だろう。

彼女は彼女で、私は私で、まだ色々と越えなければいけない壁がある。けれど、乗り越えるための一つの有効な手段が明らかになり、それを支えてくれる仲間がいるというのは心強いだろう。私もすぐに治療にアクセスできなくても、治療を受けた彼女ならこう考えるかな?と思うことで、少しは息がしやすくなるかもしれない。

 

トラウマで思い出したのだけれど、先日、友人がある文学新人賞に送ったという小説を読ませてもらった。読む前から、本人のトラウマとなっている記憶のことを書いていると知っていたのだが、それがどんなものかもよく考えずに軽々しく「読みたい」と言ってしまった。彼女も人に読んでほしいとは言っていたのだが、読んでみるとかなり辛い出来事やショックなこともあり、読み終わってから、自分が軽率に読みたがったことを反省した。ただ、非常に個人的な文章にしかないささやかな灯火がそこには確かにあって、そういうものを私は今までもこれからも心から求めているんだ、というような意味の言葉を伝えた。ストーリーというよりも私小説のような形式で、感想を書くのが難しかったし、感想など求められていないのだが、絶対に感想を送らなければならないと思った。

それは、何年も前、学生だった頃にサークルの先輩が書いた小説を読ませてもらって、「感想が欲しいです」と言われていたのに、結局書けなくて、伝えられなかったのをすごく後悔しているからだ。私はその先輩のことが大好きだったのと、私と先輩の共通点は音楽と文学しかない、と思っていたので(まあ実際そう、あとは射手座ってことくらい)小説?絶対読みたい!と無邪気に思って、どういうやりとりをしたか忘れたけれどとにかくテキストファイルを入手した。その小説は二人称だったことと、先輩が作った曲とリンクする部分があったことは覚えている。感想を書こうとしたけれど、先輩を傷つけてしまうのでは、失望させてしまうのでは、嫌われてしまうのではと思うと何も書けなくなった。自意識過剰すぎて私は、冷静な批評家にも狂信的なファンにも、当たり障りのない感想を書くいち後輩にすらなれず、そのせいで私は「感想を送る」という約束を破った。それが一番彼を失望させたのではないかとも思う。私が思っているだけで全然なんとも思っていないかもしれない。むしろそうであってほしい。自分の中では今も引っかかり続けているとても苦い思い出だ。せめて何か一言でも、正直に「感想が書けない」ということでも伝えたほうが良かったと思う。
私にとって残酷なことを言う。その時の私の目的はテキストファイルを入手した時点で終わっていたんだと思う。相手が私に対して開いてくれた扉に土足で入っていって、黙って出ていくのは、よくないことだ。私はこれまで、私に対して開かれていない扉にも隙を見て勝手に入って、勝手にその中身を知った気になってきた。そういうことばかりやってきた気がする。私は、開けてもらえた扉から私に見えた景色について話すことができたはずだ。
おそらく、信頼とは、そうやって築くものだったのだ。私は先輩に信頼してもらいたかったけど、そうなれなかったのは、私が私のことばかり考えていて、せっかく入れてもらえた他人の懐に入っても何も残さずに勝手に出ていく、クソつまらない人間だったから。ただそれだけなんだろう。

先輩はその何年か後に、蔵書を私に20〜30冊くらいくれた(処分したかったらしい)。難しくて途中でギブアップした本もあったが、少しは先輩に近づけるだろうかと思って長い時間をかけて読んできた。一応、2/3以上は読んでいると思う。今はもうSNSしか接点がないから、何をして何を考えているのか、更新されなければ何もわからない。いいねを押す他に関わり方がわからない。もしこの先会う機会があれば、もっと相手の話を聞いて、私の言葉で会話ができたらいいなと思うけれど、たぶんかなわない。それがなんとなくわかっているこの切なさは、実は、先輩の小説を読み終わった時に感じた気持ちにとてもよく似ている気がするのだ。