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tamavskyのB面

『aftersun アフターサン』感想

少し前にシャーロット・ウェルズ監督『aftersun アフターサン』を観たので感想を書く。
思い出しながら書いていて涙が出る。辛い。本当に良い映画だった。

※以下、本編の内容に関する記述を含みます。

 

タイトルの "aftersun" は、日焼けの後の肌に塗るトナーのことのようだ。劇中でも、カラムがソフィの日焼けした肌に丁寧にそれを塗っている場面があった。美しい思い出と表裏一体のヒリヒリとした痛みを想起させる。

映画のあらすじを簡単に説明すると、11歳のソフィは父親のカラムとトルコのリゾート地に滞在していて、映画はその間に撮影したハンディカムの映像や、ソフィの記憶や妄想と思われるショットで構成されている。セリフでの状況説明がとても少ないので本当のところはわからないが、全てのショットでカラムはあの若い姿のままだし、大人になったソフィと同じ空間にもその姿で現れるので、それ以来会っていないということかもしれない。

シャーロット・ウェルズ監督はインタビューで自身の作品の特徴について下記のように述べている。

短篇映画を観てもらうことを通して、観客が作品に入り込める余白というのは、自分の作品に備わっている要素なのだと気が付きました。私は感情を表現する際に、会話による説明を最も避けているのですが、そこから生まれたスタイルなのだと思います。*1

セリフによる明確な説明がないので、自ずと観客は想像によって「余白」を埋めていく。皆、ついつい自分の記憶を投影してしまうのではないだろうか。
だから私も、余白にかまけて、私の話をたくさん書こうと思う。

余白が贅沢な映画に出会うとき、自分がいつも表現活動の中で直面するある種のままならなさについて考える。たとえば歌会に参加すると、多くの人が無記名の詠草を批評することになり、自分の短歌の「伝わらなさ」を痛感する。短歌には文字数やリズムという制限事項があるため、どうしてもそういったことは起こる。それが短歌という表現のおもしろく奥深いところであるし、そもそも私だって、全てを詳らかに説明したいわけではない。それなのに「私はこの歌はこういうことでしかないと思うのに、誰もそう思わないなんて!」という驚きは、たびたびある。
だから、余白を作ることは表現者にとって結構勇気のいることだと思う。映画という、説明しようと思えばいくらでもできてしまいそうな媒体で、この映画は絶妙なバランスで余白を残し、観客に「もしかして、こうだったのかな?」と思わせている。そしてその「もしかして」は、ソフィがカラムに対して考えていることにも重なる。

 

C・ウェルズ監督のインタビューをもう一節、引用する。

一〇−一一歳の頃に父と行った夏休みの旅行の写真を偶然見つけて、それにインスパイアされたのです。私は写真の中の父と同じ年齢になっていたのですが、過去の親の姿を見て、対等の立場にいるような妙な気持ちになったのです。親を同じ人間として見る事は、通常ならできないはずなのに。*2

親もただの人間であるということ。親にも悩み事はあるし、常に正しい判断ができるわけではないし、欠落した部分がある。それに気づくことで人は大人になっていく。しかし自分が大人になった頃には親も同じだけ老いており、また新たな世界を見ている。アキレスと亀パラドックスのように、親と子が完全に対等になる日は生きているうちは来ない、ように思える。……でも、思い出の中なら?

親が人間であることは、当たり前なのに、複雑な気持ちになる。そう気づくことで救われることもあるし、簡単に受け入れられないこともある。そこに悪意があったわけではないと頭で理解していても、未だに納得できないことや許せないことなんかもやっぱりある。

私は今28歳で、大人になったソフィや記憶の中のカラムと同じくらいの年齢だ。だけど子供もいないし、結婚もしていない。

年齢層の他に共通点があるとすれば私の両親も離婚している。といっても別居が始まったのも私が高校生の頃だったので、ソフィのような11歳とはきっと感じ方もかなり違うだろう。当時の私は「まあそういうこともあるか」くらいに思っていたけど、大人になっても人間関係はうまくいかないんだなぁというのは、気が重くなる現実だった。

でも私は今も父が大好きだ。我が家は両親共働きの平凡な家庭だったが、文化資本の面ではおそらくそれ以上に豊かで、両親とも私に多くの文化を与えてくれた。初めて映画を見たのも、ライブハウスに行ったのも、父と一緒だった。小学生の頃は父の部屋に私の勉強机が置いてあったので、父の本棚から勝手に取り出して読んだ江戸川乱歩京極夏彦に夢中になった。それから、父は私を否定するようなことを一切言ったことがない。昔のことってどうにも嫌なことばかり覚えているものだが、父に関してはそんな記憶がない。「お父さんキライ」的な反抗期さえなかった。ちょっと頼りないけど、私が物心ついてから今に至るまでずっと味方でいてくれる存在だ。

 

音楽も私にとって馴染みのあるもので懐かしく、楽しかった。両親も90年代の音楽が好きで、劇中で流れるBlurR.E.M.もまさに自宅や車でよく流れていた。
カラムが好きなLosing My Religionをソフィが歌う場面で、なぜカラムが嬉しくなさそうだったのかについては、北村紗衣さんのブログを読んでなるほどと思ったので紹介しておく。

saebou.hatenablog.com

 

私が一番好きなシーンは、カラムがソフィに、恋愛でもドラッグでも、なんでも話してほしいと伝えるところ。きっとカラムの周りにはそういう大人がいなくて、それがソフィの記憶の中でも垣間見える彼の苦悩の種になっていたかもしれない。自分がかけて欲しかった言葉を我が子にかけたのかもしれない。ソフィはストロボの明滅する中、少し離れたところから踊るカラムを見ている。光と闇の連続なので、見えない瞬間、見たことのない部分がある。想像するしかない。想像することで、父という存在が遠くも、近くも感じられることがある、そういうことを描いた映画なのかもしれない。


そうえいば大島依提亜さんが手がけた凝った装丁のパンフレットも素晴らしいので、購入していない方はぜひ手元に迎え、思い出のアルバムを捲るように映画の余韻に浸ってほしい。

*1:ユリイカ 2023年6月号 特集=A24とアメリカ映画の現在(青土社) p.43

*2:ユリイカ 2023年6月号 特集=A24とアメリカ映画の現在(青土社) p.41