my lips are sealed

tamavskyのB面

8月後半〜9月前半 本と映画の記録

最近読んだ本、観た映画について。読み手からしたら一つずつ記事にしたほうが絶対に読みやすいのだろうけれど、私の中では全部つながっているから、一気にしか書けなかった。それでばーーっと書いて、また眺めてみると、別にそれぞれ独立していて、作用しあったりはしていないようにみえた。なーんだ。

 

 

品田遊『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』

生まれてこないほうがよかったと思っていた。が、それは半分くらい病気のせいであるらしかった。それとは別に、私から生まれる子供はきっと不幸になるから絶対に産まない、私から生まれなくても不幸になるから生まれないほうがよい、そういうことを考えたこともあった。今もそういった考えがゼロなわけではない。私が私に生まれてきたことによって被った不幸や悲しみ、惨めな気持ちは、この先どんな大きな幸せがあったとしてもおそらく消すことも忘れることもできない。その点、蝿の入ったスープの例えは腑に落ちる。

何日か前に、「親ガチャ」ということばが朝の情報番組で取り上げられ、SNSに反応が溢れた。上の世代を中心に強い拒否感が示されているようだった。出生の比喩にガチャを使うのならば「子ガチャ」のほうが正しそうなのに、そちらは親ガチャよりも倫理的に許されない感じがしているのが不思議だ。

作中ではさまざまな比喩を使い、または使わずに言葉のままに、反出生主義について次々説明がなされる。私も誤解していた部分があったし、多くの人にとっても誤解されやすい思想なのだろう。この本は反出生主義の現在地の説明として、また哲学、倫理学の入門としてとてもわかりやすく面白い読み物だった。

さまざまな考え方の人(さまざまな"主義"が色の名前をつけられ、擬人化されている)が意見を交わす対話篇の形をとっており、自分も会議に参加しているかのように感じながら一気に読める。実際に一日かけてひといきで読んだ。

意外だったのは、自分が意外と"レッド"(共同体主義者)に共感できるところが多いということだった。私には愛国心や、学校や会社をはじめとするコミュニティへの帰属意識といったものがずっと希薄であるという認識でいたので、そういった思想とはまさか相入れないだろうと思っていたのだけれど、「人と人とが認め合い、助け合う社会」への理想はともすれば共同体主義にも通ずるのかもしれないと気づかされた。 国や民族ではなく人類という共同体になら帰属意識が、確かにあるかもしれない。全然逆の話だけど星新一の『人類愛』ってショート・ショートを思い出した。

"ホワイト"が終始浮いていたのが少し気になった。教典原理主義とあるが言ってしまえばキリスト教の思想であるので、それがたとえば仏教であったらまた異なっていたようにも思う。「厭離穢土」という言葉もあるくらいだし、ブラック(反出生主義)にも一定の理解を示した上での反論があったかもしれない。そういえば反出生主義の宗教ってあるのだろうか。

グレーが何主義なのか、伏せられているので詳しくは書かないけれど、「書かれていないけれどなんとなくわかる」くらいに哲学の歴史を軽く知っておいてよかった〜と思った。

私はやはり善く生きたい、と思う。それはたぶん幸福のためでもあるし懺悔の結果でもある。子供を産み育てたいという気持ちが湧くことは未だにないが、科学技術に人並み以上に敬意を持ち、芸術を愛する一個人からすれば人類の叡智が失われることは(人類の視点から見れば)やはり悲しむべきことだと思うし、私は人類の視点から逃れることができない。ほら、共同体主義っぽいでしょ。ただし一方で人間でない生物も好きなので、彼らのことを考えると人類はさっさと滅亡するべきだとも本気で思う。極端だ。

 

 

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」

村上春樹の作品を好きな人ほど、村上春樹は短編がいいよね、と思っている気がする。

主人公は傷ついた自分を守るために悲しみ、怒りといった負の感情を抑え、それによって生まれた歪みに再び苦しめられる。車の運転をみさきに任せ、亡くなった妻との関わり方を反省し、自分を抑えられない正反対な高槻と対話し、ワーニャという男性性から零れ落ちたキャラクターを演じ「生きていかなければ」と言い聞かせられることで、やっと何か実感を得たようになる。家福のことだけ見ていると、女に助けられすぎだろ、と思うけれど、女たちも女たちで家福との関わりの中で(家福から"もたらされる"のではなく、共に過ごした/過ごさなかった時間や場所の中でで自ずからひっそりと)何かに気づいたり、何かを生み出したりする。こういうの全部「コミットメント」で説明がつくか……

 

コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を超えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫

 

好きなシーンはみさきが褒められて、照れて、黙って犬を撫でにいくところ。

音楽の心地よさと手話で話す女優のしなやかさと、サーブの赤(原作では黄色だったのが赤になって、画的にはたぶん、大正解)が脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

フランソワ・オゾン監督「Summer of 85

近日中にセリーヌ・シアマ監督の「Tomboy」を観、比較する可能性があるため保留。

 

 

クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」

とても良かった……色々と思ったことあるが、ありすぎて、一旦保留。そう遠くないうち、自分が旅をする折に、思い出しながら書けたらよいのだが。

 

 

川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』

この本、今年ベストくらいに面白かった(と言えるほど新刊を読んでいないけれど)。

私の大好きな植本一子さんにこの本、読んでほしいな〜〜〜っ!!!!と強く思う。というか、もう読んでいるかも。彼女の『フェルメール』で美術鑑賞の様子を文章で読むのって面白いんだ、と気づいた。植本さんはフェルメールの作品を観て撮って本にするという企画が動き出したとき、わざわざ飛行機に乗り海外にいくのだから、最初はその場で出来が確認できるデジタルカメラでの撮影を考えていたのだけれど、結局(そもそも彼女の使用機材としてはメインである)フィルムカメラでの撮影を選んだ。その一発勝負の潔さというか、生身でぶつかる感じ、美術館という場所を愛している人ならではなのかなあと今は思う、なぜなら『目の見えない白鳥さんと〜』で繰り広げられる会話にもそういうカラッとした緊張感が漲っていたから。

7月にボルタンスキーが亡くなって、私は自分でも驚くくらいショックを受けていた。この本で取り上げられている国立新美術館での個展、「Lifetime」には私も足を運んでいたので、なつかしい気持ちで読んだ。モノクロのぼやけた写真、ジャケットの山、古着がたくさん吊り下がっていた、見たことは覚えているけれど、感じたことをうまく思い出すことができない。ただ、恐怖とやすらぎが同居する空間に、はじめはおずおずと歩いていたのがだんだんと居心地よくなって、最後はカタルシスさえ感じていたような気がする。

理由をうまく言い表すこともできないし、特別その人のモノマニアだったわけでもないのに、この世を去ったことで心に大きな穴があいてしまったように感じたアーティストが幾人かいる。デヴィッド・ボウイヨハン・ヨハンソン青木裕、そしてクリスチャン・ボルタンスキー。才能に溢れ、それでいて少しカルト的というか、万人受けするわけではなくて(笑)、多くの作品を世の中に送り出し、何度も何度も私の心を救ってくれた人たち。そして彼らの生前、彼らから今後生み出される作品についても、その美しさを、エネルギーを限りなく信じていた。だから、その源泉が絶たれてしまうということが本当につらかったし、うまく受け入れられなかった。彼らはもう二度と新作を出さない、ということがこの世界にとって取り返しのつかない損失であるように思えて、このままでは世界がどんどん醜くなってしまう、何故いなくなってしまうのかと、憤りというよりも焦りのような感情を覚えた。今もまだ、その喪失と損失の感覚から抜け出すことができない。

話が逸れてしまったがとにかくボルタンスキーのあの展示が、この本に載っていたことがうれしかった。鑑賞者による言葉で彼の作品が表され、紛れもなくこの世に存在していたということが確かに遺っていて、本当によかった。

マリーナ・アブラモヴィッチという名前を聞いても、《夢の家》の概要を読んでも気づかなかったが《Rhythm 0》のことはどこかで読んで知っていた。6時間ものあいだ観客に身を任せるパフォーマンスで、彼女は非常に危険で屈辱的な目に遭った。人間の恐ろしさの証左のように語られるこのパフォーマンスだけれど、 そもそもマリーナのやっているパフォーマンスは多くがとても身体的に危険なものだ。だから、そんな彼女がこんなプロジェクトをやっているなんて意外だった。引用されている《夢の家》のプロジェクトの意図を読んでみて、ぜひ体験したいし、友達を連れて行ってみたいと思った。

著者が途中、優生思想や差別意識についてかんがえる部分、自分もはっとして、心細くなりながら読んだ。私は大丈夫だろうか? って、きっとみんな思ったことがあると思う。それと同時に、自分が弱者であったりマイノリティであったり、いわゆる差別をされる側の要素も持っているから、その目線からだと差別意識との付き合い方が急にわからなくなったり、どうでもよかったりする。学生時代に、藝大に行っていた友達に誘われて在日外国人の子供たちと演劇をしたときに思ったことを忘れないようにしたいと思う。少しさっきの村上春樹みたいだけど、「わたしたちはわかりあえなくても一緒にいることができる」ということと、「関わってみると相手は、○○人の○性で○歳、という情報ではなくて、その人の名前と顔と身体そのものになる」っていうことだ。だから「藝大に行っていた友達に誘われて在日外国人の子供たちと演劇をしたとき」っていうのは便宜上の書き方で、本当は「あの賑やかで楽しかった日々」である。

 

 

マーク・コリン監督「ショック・ドゥ・フューチャー」

アルマ・ホドロフスキー(!)主演。電子音楽に疎いため響いていない部分がありそう。もうディグディガみたいに公式が小ネタ解説noteを書いてくれ。正直前半からクララとの作曲シーンまでがピークだった。セクハラや女性蔑視が当たり前の業界人たちは勿論ウザいのだが、主人公のアナもなかなか破天荒な奴で、大して売れてもいないのに、仕事をすっぽかしたり、困ったらすぐ私は未来の音楽をやるのよ!!と大口を叩いて、払わなければならないお金を誤魔化そうとしたりする。ただ可哀想というふうには描かれていないのがいい。

 

ところでSupernature聴くとギャスパーノエのLSDムービーを思い出す体になってしまっていたがこの映画で朝のスモーキングタイムBGMに変更。

 

 

 

***

 

ずっと読書していたい。時間が無限にほしい。眠りたくない。眠らなければ…………

ドカンとあふれる夢を買いましょ

最近スナックで働き始めた。前々から週末や夜間に稼げないかと思っていて、警備員のバイトに応募して入っていたのだけれど、工事現場がお盆休みに入ってしまいいきなり収入源がなくなった。それに研修の時点で結構キツイかも、と思ってやる気を失くし、いわゆる夜職に応募することにした。

スナックとはいえ基本カウンターごしの接客なのでガールズバー的な感じ。ドリンクバックが高めのお店なので、羽振りのいいお客さんが来れば結構おいしい。家から少し遠いけれどクローズまでいれば無料で送ってくれるし。女の子たちもいい子ばかりで、お互いプライベートの話もするくらいには打ち解けてきた。

基本的に駅前から繁華街へ続く道での客引きからスタートするのだが、街全体が暗くなんだか別の世界に迷い込んでしまったような気分になる。ドンキホーテの前で客引きをしている間はマスクの下でドンキホーテの歌を口ずさんでいる。「思い立ったらいつだって ドンキホーテで待ち合わせ」という歌詞、んなわけないだろと思って聞いていたが実際待ち合わせをしている人がちらほらいた。気分は宝探しだネ……

この仕事の良いところは、カラオケを入れてくれるお客さんが来れば、歌ってお金がもらえること! もちろん好きな曲ばかり入れるわけにはいかないが。運の良いことに、お店にいる女の子の中で一番歌が上手いので、多分優先的にそういうお客さんにつけてもらえている。話術に長けているわけではないので、まさに芸は身を助く。

お店で一番、といえば、私はどうやら女の子たちの中で最年長であるらしい。今年27ですというと皆に驚かれ「学生さんかと思ってた」と言われる。小柄でなんとなく垢抜けないところが若く見せているのだろうけど。 

この仕事のよくないところは、お客さんが、このご時世に飲み歩いている人間ばかりであること。それだけ、でも重大だ。この仕事をやっていることを伝えたら皆私と会ってくれなくなるかもしれないな、とさえ思う。

 

広島に行きたいと思い続けて1年余り、記憶の遥か彼方になっていたライターズインレジデンスin尾道の募集が始まっていたことを知り、大急ぎで申し込んだ。来年1月に、1週間の間ゲストハウスに滞在する。本当に、震えるほど楽しみ。町の人や、同じく滞在する物書きたちとの交流も楽しみだ。前回の日記で旅行に行きたいと書いていたがまさかこんな形で実現するなんて。私は旅をするなら、暮らすように長期滞在したい派なのでぴったりの機会だ。呼ばれるってこういうことなんだろうか。

一応、このフリーター生活も今年度で終わりにする予定なので、最後のバカンスのつもりで楽しみたい。けれども多分、尾道、一度訪れたら住みたくなってしまうんだろうなと思う。映画館も古本屋も喫茶店もあるし、海もあるし猫もいるし、そんな街絶対に好きになってしまう。階段や坂の多い街なので老後の住処には厳しいかもしれないから、足腰が元気なうちに少しでも暮らせたらいいな、と思う。Aちゃんはついてきてくれるか謎なので、もしかしたら人生初の一人暮らしかもしれない。なんて、あるかもわからないことを徒然なるままにかんがえるのはたのしい。

 

10月には札幌に行く予定もある。文学フリマ札幌に出展する予定なのだが、果たしてできる状況になっているのかわからない。文フリはできたとしても、観光は憚られるような感じだったら悲しい。せっかくの札幌なのに……。自分はワクチンを2回打ち終わったけれど、結局変異株が流行っていて、それほど安心感がない。まだ1回も打てていない人が大勢いるのに、3回目のことを考えるのは難しい。

 

8/20。フジロック始まる。正直言って開催は支持できない。と思った。辞退した人たちは本当にえらいと思う。ただ生活がかかっている人も大勢いるわけで、そんな人たちを批判することもできない。参加者が知り合い含め多数いることにもショックを受けたけれど、音楽を楽しみたいというより、助けたい、応援したいという気持ちが強い人も多そうで辛い。なぜ補償がないんだろう。新潟だって病床が足りていないだろうにロッキンのように地元からの中止の要請もないのは、つまり湯沢の観光産業も相当ギリギリなのだろう。フジロックも存亡の危機らしい。気が遠くなってしまう。なんとか耐えてほしいけれどそのためにはあと1年で本当に終わらせなければならない。そんなこと可能なんだろうか。いまさらロックダウンができるようにという要請をしているが、そんなの何年かかるのだろうと思ってしまう。助けてオードリータン(チェンソーマンの捩りなのにみんな気付いてくれるんだろうか、これ……)。

 

fever

8/1

髪色を青にして1週間でだいぶ抜けてしまった。ドレッサー代わりにしているIKEAのロッカーを漁ったら、2年前に髪を水色にしていた時に使っていたカラーバターがほんのちょっと残っていたので、それでメンテナンスをした。それでもかなり緑っぽい。もっと濃い青、少し紫も入れなければ染めたてのあの色には戻れないらしい。でもまあ、元の色よりは鮮やかになった。ピンクにしていた時は抜けてもピンクベージュを経て金髪に戻るだけなのであまり気にならなかったが、青だと緑色がかったグレーに抜けていくので「抜けた」感じが強く、気になってしまう。面倒な色に染めてしまった……と思うけれど結構気に入っているので、キープを頑張ろうと思う。

 

8/5

病院。14:30の予約なのに、15:40になっても待っている。病院の向かいにある煙草の吸える喫茶店でコーヒーを飲むくらいのことはできたはずだ。iPhoneで小説を読んで待っていたら受付のかわいい女の人に呼ばれて(古川琴音さんに似てた)、担当の先生の診察が混み合っているので別の先生でもよいかと聞かれた。少し残念だけれど肯った。主治医のM先生はとても丁寧に話を聞くし人当たりがよいのできっと問診に時間がかかる、混み合ってしまうのは仕方ない。しかし、病院提携のカウンセリングルームに行けばこの人を1時間独占して話を聞いてもらえるかもしれない、という未確認裏技がある。カウンセラー一覧に同じ苗字の人がいるのだ!鈴木とか高橋とかの歩けば当たるよな姓ではないのでおそらくこの人のはず。

人に話を聞いてもらうことが大変な贅沢であることに、みんな無自覚すぎるのではないかと思う。誰かと会って話しすぎてしまうと、あとから非常に申し訳ないような情けないような、さもないものにお金をたくさん使ってしまったときと似たような気持ちになる。どちらも躁状態の行動だからまあ、同じか。

ところで私と同じように他の医師でよいか打診された、私と連番で呼ばれる患者たちはそれでも待つことを選んだらしく次々M先生に呼ばれて部屋に入っていく。なんだ、いつでも正直者がばかをみる、というくさくさした気分になって、やっぱり本当はM先生に話を聞いてほしかったんだなとわかり恥ずかしい。代わりに通された診察室は院長先生のだった。院長先生は優しいけれど人と話すのがあんまり得意ではなさそうな、目の合わない感じがするおじさんだった。そういう人の気持ちがわからない人からはあまり評価されなさそうだけど、私は特に嫌だとは感じないし、私も目を合わせるのが苦手なので落ち着いて話せた。薬は続投。何度も書きすぎていつまで新鮮に驚いているのかと思われそうだけれど私はちゃんと新鮮に驚いている。薬、ほんとうに、すごい! こんなに楽な気持ちで日々を過ごせるようになるとは思わなかった! きっと覚えていないくらい小さい頃、こんな日々の中に生きていたことがあったんだろう。朝起きるのは辛いし、夜遅くに甘いものを食べられないのも悲しい。けれどもそんなことより、日々笑って過ごせることのほうが重要だ。何度も同じ話をすると、人間が相手なら気まずそうな顔をして嫌われるからやめよう。

 

8/9

ワクチン。昨日の夕方に2回目を受けたらしっかり熱が出て、38℃台からなかなか下がらない。全身のだるさもひどい。日中はぎりぎり、勉強を進められるくらいには元気だったけれど夕方から完全に寝たきり。

体調が悪くて、できることがない状態で布団に転がっていると鬱で仕事を休んでいたときののとを思い出す。

こんなきつい思いをしても、変異株が流行りすぎてあまり意味なさそうで、本当にいつまでこんなことをやっているんだろうと思う。

今日は原爆が長崎に投下された日。6日は広島だった。広島が最初だが、長崎を最後にするかどうかはみなさんにかかっているという、長崎市長のスピーチが印象的だった。ぼかすけれど、仕事で原爆を投下された都市の広報の仕事を手伝っている。新しいホテルや知る人ぞ知るお土産、面白そうな本屋さん、猫がたくさんいるスポット、などなどたくさんの情報を毎日浴びて、早く旅行してみたいとずっと思っている。いつになったら行けるんだろう。

オリンピックが終わったらしい。家にはテレビがないのでリアルタイムで中継を見ることは1秒もなかった。Twitterでは盛り上がっている人もいて、そういった人たちからの情報で、わりと色々な競技、特に新設の競技で日本の選手が活躍したらしいことはなんとなく知った。

努力の結果良い成績を出すことは素晴らしいことだろうけど、やっぱり全然感動できない。ボランティアの人を電車で見るたび嫌な気持ちになっていた。ていうか、日本の選手が活躍することで感動する理由もよくわからない。別に友達でもないし。ただスポーツのめっちゃ上手い人が、めっちゃ上手いことによって日本を代表できるシステムがなんかもう、大きく出たなー!?って感じ。代表はご立派で、メダルとか取るけど、日本という国自体はだいぶボロボロで、ヨボヨボのおじいさんたちがヨボヨボ喋って、ヨボヨボお金をあっちこっちして、恥ずかしいことばかりなのに、そんな日本を代表させられるほうがかわいそうと思ってしまう。

五輪やったこともそうだし、ワクチンが結局足りなくなったことも、東京が医療崩壊したことも、悪い予想はどんどん本当になっていくんだ、と実感できたので、私たちは本当に年金なんか貰えないのだろうなと思った。同性婚もずっとずっとできないんだろう。海外メディアにボコボコに叩かれ、燃え盛る火だるまになるような事件があればもしかしたら、というくらいの希望しか持てない。そんなもの、希望といっていいのかもわからない。

 

オリンピックに熱を上げていた人たちがパラリンピックの話を全然しないことにまた落ち込むんだろう。自国でやるなら視聴率とかじゃなくてちゃんと放送しろよ、認知度上げるためにマスコミが頑張れよと思うのだけれど、まあ、私も観られないので何とも言えない。

 

小田急の電車の中で刺傷事件が起きて、それだけでも怖いのに、女性を狙った犯行であることに抗議するフェミニストたちにアンチが噴き上がっているのも本当に怖い。韓国では女性に対するヘイトクライムが起きたことをきっかけにフェミニズムムーブメントが盛り上がったけれど、日本では、無理だろうな。SNSでもっともらしい意見につけられる「私はフェミニストじゃないけれど、」という謎の枕詞が悲しい。聞いてみたい。あなたはフェミニストじゃないの? じゃあ、女性差別の構造には反対しないの? あなたの思うフェミニストフェミニズムって一体何なの?

ROM専になっている大学教授や小説家らがメンバーの読書会LINEで、わたしよりやや年上くらいと思われる女性が「日本ではフェミニズムに価値を発揮する力がないと思う」と発言していてぶちのめされてしまった。弱者でいるほうが楽な局面が多いからだ、と。それに「フェミニズムを提唱するとお前はどうなんだという視線が付き纏う。フェミニストは例外を除き不美人が多い」という全く意味不明な暴言も投稿された。小林エリコさんの著書を読んで同じように「弱者女性は楽」と言えるか聞いてみたいところ。そのLINEグループで男性の教授が語った、構造批判としてのフェミニズムと、たとえば性的加害の現場には大きな溝があるという問題提起は面白かったのだけれど。

無力感がすごくて、さじを投げたようなポーズをすること自体が、受け入れたようにも見えてしまうからずっと疲弊している。

あ、思い出したから最悪な話する。前いた会社(そこそこ保守的)、コロナ禍でリモートワークなどできるようになったのだろうかとふと気になって元先輩のTwitter(3人特定できたのでリストに入れている)流し読みしていたら、男性の元先輩が「リアルな痴漢の現場を目撃した。めっちゃ触ってるやんこいつって思いながら男の方をずっと見てた」とツイートしていて本当に気分が悪くなった。犯罪が目の前で起こっていてなぜアクションを起こさないのだろう。女の人も大変だなーくらいに思われてるんだろうか、いや、犯罪なんだけどな。その先輩は、飲み会好きの社員が必ず事務の女性社員を「華を添える」みたいなニュアンスで飲み会に呼んでくることに「それはどうかと思うわ」と言っていたはずだ。私の前だったからそういうポーズをしたのだろうか? 会社の男尊女卑は問題視するのに、性犯罪は見逃す。意味がわからなくて本当に気分が悪いし、そんな人が身近にいたことが怖い。

 

女に生まれてよかったこと、高い声が出るから、高い声で歌えることくらいだな。低い声でも歌いたかったけど。

 

あー、熱が38.1〜3℃からさがる気配がない。仕方ないからもう寝よう。

やめへんで

最近実はあんまり日記を書く気にならない。通信講座の勉強を進めなくてはという気持ちが強くて、まとまった時間ができたら、机に向かっている。というとかっこいいけれど、勉強もする気が起きないときは、TwitterYouTubeをだらだらと眺めてしまう。

時間、というものに厳しくなった。元々がルーズすぎたのかもしれないけれど。食後2時間あけて薬を飲む必要があること、そこから約1時間で副作用の眠気が来ること、副作用の眠気はかなり強力なので睡眠時間が6時間以下になると朝の自分が困ること。これらを考えると、とにかく食事を早めにとらなければならないので、ゆっくり遅くまで料理を楽しむことができなくなった。仕事の定時が19時と遅いため大抵22時ごろに食べ終わり、そのあとは勉強するか読書をするかYouTubeを眺めるかして、0時になったら薬を飲んで、1時までには寝る支度をする。なんだか焦っているようであまり楽しくない。それに、食後2時間あけて服用しなければならない理由が「血糖値が急上昇してしまうから」なのでかなり厳密に守らなければならない。夜、甘いものを食べたりしたいのだがそれができなくてストレスがたまる。生理前は特に食欲が旺盛で、この約束事が歯痒くて仕方ない。

 

4連休は、派遣のアルバイトを入れたかったけれど色々と間に合わず、面接しかできなかった。面接と、美容室と、ライブと、地元に帰ってしまう仲良しのサークルの先輩の送別会で、あっという間になくなった。

今日だけ、図書館に本を返す以外の予定のない日だった。勉強して、読めていない本を読んで、日が暮れてから返しに行き、ついでにスーパーで買い物をして帰ってきた。牛豚合挽肉が安かったので500gくらい買った。ハンバーグを作った。タネに塩胡椒を入れ忘れ、肉と玉ねぎだけのシンプルな味になってしまった。まあそれはそれで美味しい。

輸入食品店で貰ったバーベキューソースのサンプルがあったような、と探してみると、あったけれど今年の3月で賞味期限が切れていた。袋がパンパンに膨らんでいて(元々そうだったかもしれない、わからない)ちょっと怖くなったし、よく見たらチポトレソースだったので、潔くあきらめた。辛いのは苦手。

 

髪色を青くした。一昨年の今頃にも青くしていた気がする。そのときはかなり深いネイビーブルーにしてもらったが今回は、もう少し緑がかった、ターコイズブルーのような色にした。オレンジ色のメイクが楽しくなった。補色どうしなので相性がよいらしい。パーソナルカラー(サマー)的に難しいかと思っていたけれど全く違和感はない。髪色の方をオレンジにするのも、ありかもしれない。長さも10cmくらい切って、ギリギリ一つ結びができるくらいのボブになった。乾かすのが楽になるかと思ったが、なぜかそんなに違いを感じられていない。風呂を楽にしたい気持ちで切ったようなものなのに! でも、私は髪が短いほうが似合っているような気がする。伸ばしかけの前髪が大変邪魔なのだが、美容師さんがカチューシャ意外といいよ、と教えてくれたので、ZOZOで夏服を買うついでに黒くて幅の広めなものを買ってみた。ガーリーにならないように、顔まわりには曲線を持ってこないように。

 

冒頭散々文句を書き連ねたが、薬はちゃんと効いていて、恩恵を受けている。本当に落ち込むことが減った。もちろん人並みにはブルーになったりもするけれど、自分で気分転換をすることができる。夕食後に寝落ちして薬を飲みそびれると、グルグルと思考が堂々巡りを始めてしまい苦しい思いをする。

ただその堂々巡りが、私に日記を書かせていたような気もする。ベクトルが内側に向かいすぎているのが、自分の表現の源泉でもあり、欠点でもあった。自分の外側のことも、これからだんだんと書いていけるようになるのかもしれない。

薬によって感受性が失われた、というのはない。むしろ、バスの車窓から眺める街並みや空の色の美しさに気づくことが増えた。SNSでみかけた知らない音楽を聴いてみようと思えるようになった。

ツチヤチカらのベストアルバムめちゃめちゃかっこいい。笑顔になる。名古屋に6EYESという超カッコいいバンドがいるのだが、そのフロントマンのツチヤさん、今なぜか金玉ピンポイントでブイブイ言わせているらしい。Spotifyのリンクをシェアしておく。

 

あー薬が効いてきて、ポワポワとした眠気がきた。タープの下ハンモックにゆられながら森の葉擦れを聞いているところ、海辺のホテルで網戸の窓から小波の音と月明かりが入ってくるところ、できるだけ美しい想像をしながら、安らかに、眠る。やっぱり日記は書き続けていきたい。

暴力

7/15

朝9時から心療内科。眠すぎて診察の待ち時間をぐっすり眠って過ごす。薬の効き具合を聞かれていい感じであることを伝えた。「本当によかった、きょう○○さんの診察なの思い出して大丈夫だったかなあと心配していました」となんとも親身なコメントをいただく。「髪型変えましたか?」とか言われて色恋営業みたいで笑う。前回の処方が50mgだったのだが通常150mg〜300mgを飲む薬らしいので、一気に量が3倍になった。信頼されているのか3週間分出してもらえた。副作用とうまく付き合っていければと思う。

この日はライブだった。あんまりいいバンド出ていなかった。みんな交流する気もない。トリのバンドのギターはずっと楽屋で寝てて一番態度悪かったけど一番演奏上手かった、そんなもんだ。

いっぱい歌詞を間違えた。

 

7/16

ライブの翌日に仕事するの結構キツい。起きたら家を出る5分前で焦った。なんとか家を出たけれど目を閉じるたびに意識を失いかけるほど眠くて、コーヒーと栄養ドリンクを1本ずつ飲んだ。身体が辛かった。

帰ってからヤケクソでご飯作った。パスタに燻製マヨネーズと柚子胡椒と味ぽん和えたのと、豚肉入りのにんじんしりしり的な、雑炒め。カロリー高そうだなと思いながら、食べたら血糖値がすごい上がって横になっていたら縦になれなくなった。また薬飲みそびれた。

深夜に突然リビングで何かが落ちるようなガタンという音がしたとき、隣で寝ているAに急に顔を触られた。私がここにいるのを確認したらすぐにまた眠りに入っていったので、ああ今自殺していないか確認されたのかもしれないと思った。(正気に戻ってからは、そんなわけないだろと思う。)

 

7/17

父の誕生日。おめでとうのLINEをする。プレゼントもそのうち贈る。

今日は10時から警備バイトの面接を入れていた。だが人と話すのが厳しそうなので明日に改めたい、と思いながら寝たらそういう夢を見た。夢を見ただけで何も解決していない。

9時にならないと担当者と電話がつながらないので、それまでぼーっとすることになった。鬱病の人は、ぼーっとしてる暇があると死にたくなるので、今とてもよくない状態。薬も飲んでいないし。飲んだら眠くなってすっぽかしてしまうんではないかと思って飲めない。おさぼさん(サボテン。吹雪柱)にお水をあげた。

おむすび屋さんで遅い昼を食べ、夕方まで駅前で色々買い物。セリアでネットバッグを買って、ハンモックのようになるようにフチの糸を切っていたら眠くなって寝てしまい、起きたら22時。暑い中歩いたので疲れてしまったらしい。低血糖なのか目眩がひどく夕ご飯が作れなかった。せっかく買い出ししたのに……。Aちゃんにコンビニで適当に買ってきてもらったものを食べたらまた眠くなりそのまま寝た。

 

7/18

昼前に起きた。が、また目眩がひどい。薬の副作用の眠気もひどい。何もできず横になるが布団をはぎとられ続けて身体が冷える。昼ごろ本格的に起きる。最近は眠りが浅いのか夢の中で色々やるべきことをやってしまい、起きても何も済んでいないという無意味な悲しみを感じることが多い。

今日はワクチン接種の日。とにかく水分をたくさんとって出かけたところ尿意との闘いになってしまった。あの流れは途中でトイレに行くことを想定されていない。ただし思ったよりも流れはスムーズで、予約時間の30分前に着いておいたら滞在時間は1時間程度で済んだ。スタッフも慣れてきている感じだった。

注射そのものの痛みも大したことはなく(採血と同じくらいだけど採血よりも早く終わるので楽)、当日の副反応は若干腕が痛い程度。

 

7/19

仕事。午前は眠気でどうにかなりそうだった。昼を過ぎたあたりから身体の節々が痛む。リンパが痛い。たぶん微熱もある、という結構つらい状態で帰宅した。スーパーで天ぷらうどんのお弁当を買って帰って、開けてみたら天ぷらの下にお米があった。天丼とうどんのお弁当だったのだ。あまりにも満腹で2時間後でも薬を飲むのがちょっと怖い。

オリンピックが近づくにつれ、どんどんわけわかめになっていく。増えるわかめである。あのインタビューのことは知っていたし音楽としても特にコーネリアスに思い入れはないので、コーネリアス好きな人が必死に何か言ってるのを、フーン?(笑)って思ってしまう。ナのつく人がトランプ支持者ですとツイートしたときの私も、これくらい惨めに見えていたのかと思うと悲しいけど笑える。

藤本タツキ先生の読み切り、昨日深夜眠る前に読んでちょっと泣いてしまった。昼休みごろになると考察や小ネタを紹介するツイートが盛んにRTされており、感心してしまう。Don't Look Back in Angerは酔っ払ってみんなで歌うと盛り上がるっていうのが嫌なあるあるすぎて笑う。

マーティン・マクドナー監督の『スリー・ビルボード』、馬伯庸の小説「沈黙都市」あたりが正にそうなのだが、ある程度感情移入したり共感できる存在としてストーリーを辿ってきた主人公格の人物たちがどうしようもない理不尽にぶつかり、結果として暴力に走ることになるとき、引き裂かれるような気持ちになる。もう暴力しかない! なのに、暴力はよくないよね? という、ダブルバインド。「ルックバック」がそういう結末の作品だったわけではないけれど、というか、それができなかった話なんだけれども、なんだかそれに似たようなどうしようもない気持ちが残った。そういえばDVDが描き込まれている『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も、シャロン・テート事件がもし……という話だけど、もしレオ様とブラピが隣に住んでいてシャロンが助かっても、ヒッピーの女の子はオヤジの武勇伝に華を添えるかのように丸焦げにされる(とここまで書いて気づく、この一致は偶然なのに偶然じゃない。気分が悪くなる)。

わりと直接的な話を書いてしまうが京アニ放火事件の青葉被告の火傷を治療した医師のインタビュー記事で、懸命に命を救おうとしたことで被告からこんな言葉が出たという話があって、

「こんな『底の底』の自分にぶつかってくれる人が赤の他人でもいるんだ」

「ひたすら生かすこと考えた」 京アニ事件・青葉被告の元主治医が語る「思い」:時事ドットコム

これって引きこもっていた京本が面白いマンガを描きつづける藤野に初めて会ったときに抱いた気持ちとそんなに変わらないんじゃないか。感情はほとんど全部普遍的で、誰がいつどうやって抱いて形にしたかどうかでこんなに変わってしまって、悲しいことになってしまうね。簡単に何か言い切ることは永遠にできない。そういうときに映画や、漫画や、音楽は言語化しないという選択肢で表現してくれるから心地よく思うことは多い。

 

ところで漫画の読み方ってよくわからない、というかわかっていないなあと思う。文学の読み方については、一応大学で専攻していたから、理論と実践を一通りやってはいる(はず)。

漫画にはそれをそのまま当てはめることができなくて、漫画の読解や批評をしている本を読んでみたいけれど、それは結局言語化できないものを言語化しようとする無理のある試みなのでは……という気もする。漫画、永遠によくわからないかもしれない。

 

いまこの漫画についてツイートすると逆張りマンがつっかかってきてうるせーから、どこにも告知しないブログで書いたよ。

あこがれ

7/11〜14 ごちゃまぜ

一匹の蝿が私のコーヒーカップを休憩所にしている。
ぎょっとしてカップを傾けると蝿は飛び去った。中身が空であったことに安心した。
昼休みまであと45分、紙巻たばこの吸えない、Wi-Fiの恐ろしく遅い、駅前のドトールに閉じ込められている。外へ出たところで、たった1時間の猶予ののち5時間の労働が待っている。その憂鬱を思うとどちらかといえば蝿のほうに憧れを覚える。

 

家のWiFiがない問題が、ようやく解決しようとしている。先の休日、お金がないので美容室を諦め、代わりに同居人Aの旧居近くに住む友達の家(に、引っ越しの際に持ち出しきれなかった荷物が残っている)まで赴いた。殺人的な湿度と炎天下の中をえっちらおっちら、WiFiルーターだの延長タップだのを運んだのに、肝心の回線の契約が切れているので(これもAが滞納に滞納を重ねたからに違いない)、インターネット開通ならず。
それで結局UQの、コンセントプラグに刺してすぐ使えるルーターを買うことになった。

最近、日々の記録を適当にしかつけないでいたら、記憶が非常に曖昧になってしまった。あの会話をしたのが昨日だったか一昨日だったか、あれを食べたのは一昨日だったかもっと前だったか、そういった些細なことが思い出せない。ただとにかくタバコがどんどん減っていくので、それで日々の経過を感じている。ちょっと吸いすぎている。

校正の通信講座の7月分を11日に投函した。良いペースだ。勉強は裏切らないと言い聞かせて、嫌なことがあったときこそ取り組むようにしている。

昨日は、20時頃に帰ってきて、夜勤に備え仮眠をしているAの横で寝ていたらそのまま朝6時まで目が覚めなかった。つまり、躁鬱の薬を飲み忘れた。ついでに夕食をとるのも忘れた。18時間近く食事をとっていないので、その状態で薬を飲むのは怖く、やめておいた。

文フリで買ったものについて感想を残しておこうと思い、二回に渡り作品を購入したサークルについて書いたものを朝アップロードした。製作者からお礼のリプライが来た。小さなつながりをいつまでも大切にしたい。


とある友人が私のバンドの音楽をInstagramのストーリーでシェアしてくれた。心配してくれたの嬉しかったです、というお礼が添えられていた。というのも、その友人(Fとする)は数日前まで精神的に辛そうな状態にあった。部屋の中でものを燃やしたり突発的に夜の富士山に向かったりしていて、「F、大丈夫かな」とツイートだけしておいたのだった。ふさぎ込むというよりは攻撃的であって、それがうまく発散できないような感じを受けたので、寄り添って何かの助けになることは難しく、危険だと思った。だから、遠くから「大丈夫かな」とだけ言った。とても無責任だと思ったが、それが自分のできる限界だと思った。思い込もうとした。
結果的にはFはただ夜の森の空気を浴びて無事に東京へ帰ってきた。私が数週間前に檜原村で吸い込んだような、澄んでいて湿度の高い、人のいないところの空気をチャージしてきたのだろう。あれは効く。下手な抗不安薬なんかより、ずっと安全に強力に精神を落ち着かせてくれる。
その流れで今度お茶をしようという話になった。実際に顔を合わせるのは何年ぶりだろう? そもそも人とお茶をするという行為自体すら久しぶりだ。人と会う予定があると、なんとなく閉塞的な気持ちに穴が空いたようで心が軽い。もっと気軽に、他人を誘えるようになれればよいのだけれど。

薬を飲み忘れたせいか、仕事中に涙が出る。今の仕事は面白いが、ときに目にする情報の多さに混乱する。悲しいニュースに耐えきれないことがある。自分でどうこうできる問題ではない。この世界が悲しみに溢れているのが悪いのだ。

 

また図書館で本を借りたが、カバンに入れてくるのを忘れてしまって電車で読むことができない。借りたのは、群ようこ『この先には、何がある?』、柴崎友香寝ても覚めても』、あと一冊がなんだったか思い出せない。適当に綺麗な表紙の外国文学を選んだ気がする。そういえば和室の棚に、買おうと思いながら金欠で諦めていた岸政彦『リリアン』があった。Aのものだろう。読み終わっていたら貸してもらおう。

 

他人の日記や、随筆を読むのは楽しい。学生時代は本を読むぞー、と手に取るのは大抵小説であったが、それがいつのまにかエッセイばかり手に取るようになった。日本文学専攻に在籍していたのだが、近現代のエッセイは講義の研究対象として扱うことも少なかった気がする。一方で中世の随筆は面白い先生がいて、2年間、門外漢なりに楽しく講義を受けていた。徒然草がいかに革新的な文学作品であったか、端々にちりばめられたオマージュ(から見える兼好の教養の高さ)、などなど。あっ、これは特にオチのない思い出話。 

作家先生でなくとも友人や知人の日記は知っている範囲で全て読んでいる。ブックマークまでして読んでいるので注意したほうがいい。余程つまらなければ別だが。こんなことを書いて、私に読まれたくないことを書かないようになられたらどうしよう。先日サークル時代の2個上の先輩がnoteを始めて、どんどん投稿されているので、貪るように読んでいる。昔その先輩が好きだった(そんで無言のうちに振られた!)。この先輩がハッキリときらいだ、とか苦手だ、とかいうことを、私は悉く好きであったり、やってしまっていたりする。だから私はこの人から好かれないし、認められないんだということが、よくわかる。ずっとわかっている気がする。それでよい。先輩が生きているのをこれからも確認できるだけでなんだか喜ばしいことのように思う。

そういう、友情も恋愛ももはや発生していないが、ただこの人が無事にすこやかであるのが嬉しいという気持ちを抱く人が何人かいる。なんだろう。憧れ?

Aはもう私に対しては完全に、この感情がなくなっているのだろう、と思うことが増えた。

TBSのアナウンサーに、「憧れ」さんという名前の人がいる。読み方はそのまま、あこがれ。なんていい名前だろう。朝4時台のニュース、憧れさんは美しい声でおはようございますと告げる。けれども実は、仕事で使う番組表やTV録画機では、午前4時は前日の深夜の扱いなのである。

話を戻す。知っている人の日記は、書いている人と私の共通の知り合いも登場するのが楽しい。一人の日記を読んでいるのにそのほかの何人かの人生を少しだけ覗くことができてお得な感じがする。もっとみんな日記を書いたらいいと思うけれど、それはそれで、知りたくないことまでたくさん知ってしまうから嫌なものだろうか。

健康的な、あまりに健康的な

クーラーかけっぱなしとはいえ室温においたままの料理を食べたらお腹を壊した。そろそろ気をつけなければならない。お腹が痛くなってトイレに駆け込み、どっかり座っていると子供の頃を思い出す。小学生の頃しょっちゅう腹痛を起こしていた。このブログには前にも書いたと思うがストレスで過敏性腸症候群のような状態になっていた。我慢できないほど、うずくまるほど痛いのでそうしているとはいはい仮病、みたいな扱いをされて、挙句いじめっ子たちにお腹をおさえて顔を歪めている物真似をされて本当に最悪だった。それに比べたらマシ、それに比べたら余裕と頭の中で反芻している。これはただ悪いものを食べてお腹が正しく反応しただけで、誰からも責められないし、馬鹿にされるようなことではない。

体調を崩したら心配してもらえるというのが、大人になるまで信じられなかった。体調不良を訴えたところで、家では日頃の不摂生を責められるか、嫌な顔をされるか、無視され、部活では体調管理がなっていないと責められ、クラスメイトからは仮病だと陰口を叩かれた記憶ばかり。だから大人になってからはみんな心配してくれるのでびっくりした。通院してから会社に行くだけでみんなに「大丈夫だった!?」と言ってもらったり、ルームシェア時代に発熱と脱水症状を起こしたら同居人が病院まで行くタクシーを呼んでくれた。鬱がひどく食事ができなかったとき、友達がゼリーやら菓子パンやらを差し入れしてくれたこともあった。やさしい人たちはちゃんといるんだなと嬉しく思ったが、きっとこの人たちは子供の頃からどんな場所でも心配されてきたんだろうと、やるせない気持ちになってしまう。

 

運良くコロナにはかかっていない。数日前また身近な人が感染したと連絡があった。本当に自分は運が良いだけとしか思えないほどに、月に何度も会う知り合いや会社の人もかかっている。そして彼らも運良く、重症化することなく後遺症もなく、日々の生活に復帰できている。1週間ずっと味覚がないのは本当に辛かったと聞いた。マスク、手洗いうがい、頑張るしかない。

 

しかし今日は熱中症にもなりかけて本当にあぶなかった。電車の中で意識が遠のいた。こんな熱帯のような気候の中、マスクなんかしたくないがするしかない。

ワクチンがある程度行き渡ったら、またウレタンマスクが流行るんじゃないだろうかと思う。抗体持ってるしポーズだけ、というニーズがきっと発生する。

私の居住地はワクチンの予約が13日から始まるので、できるだけ早いとこ受けてしまいたい。

 

今日は心の健康も多少損なわれている。以下削除